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礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だ…
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#マルコによる福音書

マルコ伝の「復活」

復活祭礼拝。確かに、復活ということが信じられないので、教会に行くのが憚られる、というケー…

たかぱん
2か月前
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子ろばに身を置いて思うこと

受難週を迎えるにあたり、十字架そのものよりは、エルサレム入城のほうが、選ぶ聖書箇所として…

たかぱん
3か月前
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河の流れのように

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)とイエスが問う。弟子たちは様々…

たかぱん
3か月前
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悔い改めが始まり

マルコ伝は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」で始まる。なにしろ、それまでになかった…

たかぱん
6か月前

来る物語を行く

黙示録の連続講解説教(と呼んでよいか分からないが)を外れて、今日からの「アドベント」に沿っ…

たかぱん
6か月前
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自己満足で終わらないために

手話で「あんたの手話はまあまあだね」と返されたら、これはかなり喜んでよいそうだ。「まあま…

たかぱん
9か月前

不思議な同時性

復活祭を過ぎると、次は教会形成を考えることが多くなる。7週目のペンテコステ礼拝を見越してのことだろうか。しかし、同時に復活の意味をさらに思う、ということもあっていい。マルコによる福音書をそのときに選ぶことは、案外避けられているように見える。16章で、空の墓を見た女たちが恐ろしくて何も言えなかった、というようにプツンと記述が途切れるのだ。その後に続く箇所は、写本により相違が大きいし、それらが全くない写本も分かっているため、オリジナルにはない、後世の付加であるというのが通説である

立ち上がるところに

受難週に入るのだが、選ばれた聖書箇所は、エゼキエル書と、マルコによる福音書の、バルティマ…

たかぱん
1年前
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洗礼と命

私はかつて60分以上の礼拝説教が当然だった環境にいたこともあるので、50分ほどの説教をさほど…

たかぱん
1年前
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からし種のたとえ

イエスは、農業や漁業、牧畜業といった、命を支える仕事に携わる人によく響くであろう話を時折…

たかぱん
1年前
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