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■「MIU404」について
8月に終了したTBSの連続ドラマです(全12話)。種別としては刑事もの、バディものに分けられます。
プロデューサー:新井順子
脚本:野木亜紀子
監督:塚原あゆ子
主演:綾野剛・星野源
視聴率は半沢直樹などに譲りましたが、SNSを見ている限りは、かなり熱狂的なファンがついていたような気がします。11話で完結したのですが、最終回の翌週の金曜日夜には「#MIU40412話」というタグで、幻の12話の内容が勝手にツイートされる、という現象まで観られました。

■考察って何すんの?

このドラマはどのような意図から企画されたのか。視聴者に対して、何を伝えようとしていたのか。少なからず脚本をかじったことのある立場から、そういうことを考えてみたいと思います。

みなさんは普通、そんな小難しいことを考えながらドラマを見ることってないですよね。私も見ている間はあまり考えません。純粋に一視聴者として楽しんでいます。でも、楽しければ楽しいほど、「あれって結局何が言いたかったのか」後になってその裏側を考えてしまうものです。 

いやいや、そもそも、ドラマってそこまで深く考えて作ってるの?って不思議に思った人もいるかもしれませんね。 

はい。考えて作っています。私もいくつかドラマの企画書を書いたり、見たりしてきましたが、そのいずれにも必ず企画意図、伝えたいメッセージというのが存在しました。

経済に低迷により、昔に比べて減ったと言われていますが、ドラマ制作には未だに1話1千万円、1クールで億単位のお金が投下されます。何百人、下手をすると何千人もの人が関わってきます。そんな大きなプロジェクトが「人気脚本家が手がけるから」「何となく面白そうだから」とだけアピールして通るでしょうか。通りませんよね。絶対的な建て前が必要です。形になったからには、そこには必ず、明確な意図やメッセージがあったはずなのです。

しかし、これらは一般に明かされることはありません。通常、作り手の間では企画意図やメッセージというのは「語るものではなく、感じてもらうものだ」という不文律があります。そういうのを明らかにすると、途端に説教臭くなって、ドラマが興ざめになってしまうし、お笑い芸人が持ちネタやギャグを自前で解説するようなもので、なんか「寒い」と思われているからです。 

というわけで、MIU404にはどのような意図やメッセージが込められていたのか。これは見終わった後に、勝手に慮(おもんばか)るしかありません。多少、奇妙なことを言い出すかもしれませんが、どこにも正解・不正解というのは落ちていないので「えーそういう意見もあるんだ」「私はそうじゃなくて、こうだと思う」参考にしたり、話のネタにしたりするぐらいの軽い気持ちで読んでみてください。

■「MIU404」というドラマのテーマと構造について

本作は「0(ゼロ)」が大きなモチーフになっています。
「存在しない」「見えない」を言い表しているのだと思います。

第4機動捜査隊
MIU404というタイトルは「Mobile Investigative Unit 404(第4機動捜査隊の第4班)」の略称です。しかし、そもそも警視庁には第3機動捜査隊までしか存在しません。第4機動捜査隊は、各部隊を補充するために臨時に立ち上げられた極秘扱いの部署であり、形式的には「存在しない」部隊です。

404 Not Found
404はインターネット上で読み込むことのできない場合に表示される「404 Not Found」にも由来しています。第1話のラストシーン、警視庁の機動捜査隊のサイトにアクセスが集中した結果、404機捜は「404 Not Found」になってしまいます。これは視聴者に対する明確な意思表明です。つまり、このドラマはただの刑事ドラマではなく、「存在しない」「見えない」とされている刑事達が主役です、と言うことです。

肝心のドラマ各話の内容ですが、そこで取り上げられるコンテンツも同様です。0(ゼロ)がテーマになっています。

たとえば、時効成立までの10年間を逃げ続けていた犯人。
たとえば、学校内でもみ消されてしまった違法薬物の使用問題。
たとえば、不法就労を盾に奴隷的に扱われている外国人留学生。
たとえば、違法組織に追われて、身を隠している女性など。
社会的に「存在しない」「見えない」とされている問題を数多く取り上げています。

組織として存在しない・見えない警察が、社会的に存在しない・見えないことになっている様々な問題に立ち向かっていく。
これがMIU404の大きな構造になっています。

■なぜ、そのようなテーマ・構造にしたのか(選んだのか)

刑事は“正義”です。そして、犯罪者は罪を犯した“悪”です。正義が悪を叩く。その模様を描くのが刑事ドラマの鉄板とされています。しかし、MIU404はこの鉄板枠にあてはまりません。

まず、刑事側には十分な権限が与えられていません。形式的に存在しないことにされているため、立場も弱いし、人員も限られています。どちらかと言えば、弱い正義です。これは、機捜404の車両が警察車両ではなく、移動販売のワゴン車(メロンパン号)を利用していることに象徴されています。正義のヒーローではあるけれど、資力に乏しく、周囲からの理解の薄い。でも、明るく、とっつきやすい存在だということです。

また、悪である犯罪者も同様です。個々に違いはあれども、それぞれに罪を犯さざるを得ない動機を抱えています。この部分に関しては、これまでの刑事ドラマでもよく見られます。「泣き落とし」というか、善悪の境界線を揺るがせ、視聴者の同情を誘うのは刑事ドラマの常套手段です。

しかし、MIU404の場合、それが安っぽい感じで終わっていません。後ほど、別にスペースを取って詳細に説明しますが、分かりやすい例で言うと、第5話『夢の島』で取り上げられる外国人の不法就労の問題です。

就労ビザが取れないため、やむをえず留学生を装って日本に来る多くの外国人達。その弱みに付け込んで、多くの日本企業が彼らを雇い入れ、安い賃金で死ぬほどこきつかっている。
これはメディアがあまり取り上げない、でも、確実に存在する問題です。MIU404はここにもしっかりとスポットをあてて、日本社会の構造的な問題として取り上げていました。同情を誘うだけの単調な刑事ドラマと違い、見終わった後も「可哀想だね」では済まされないような作りになっているのが特徴です。

なぜ、わざわざ、このようなテーマ・題材を選んだのでしょうか? これには様々な理由が考えられます。私は次の2点が大きいのではないかと思います。

「臭い物にフタ」への問題提起
今の社会は、前述した外国人の就労問題などのようなリアルでシビアな問題には目を向けず、とにかくキレイで通りのいいものを“礼賛”する傾向にあります。これはインスタグラムを見ると顕著です。インスタのタイムラインだけ見ていると、この世はなんて素晴らしい社会だと思えてきます。

美しい景色、美味しそうな食べ物、可愛い犬猫…その裏側には地球規模で続く環境破壊、フードロスや飢餓に苦しむ子供達、処分されている犬猫、そういう現実があるわけですが、悲しいことに、それらは全く取り上げられません。みんなも知らないわけではないのでしょう。ただ、直視するにはあまりに酷なため、知らず知らず見えないようにしている、臭いものにフタをしてしまっている、それが現実の日本社会です。

具体的な例を挙げて言えば、東日本大震災の後の福島の状況です。MIU404にも暗示されていました。東京に五輪を誘致するために「復興五輪」「完全にコントロール下にある」と言われた福島。しかし、今をもって、汚染水も汚染土も手をつけられることなく放置されています。避難した人達は無事に帰ることができたでしょうか? 町は? 産業は? 復興は進んだでしょうか? 日本国民の大半がそのような状況を薄々と知りつつ、見て見ない振りをしています。

世の中には、こういった種類の問題が数多く存在し、そして、無視されています。最近では、無視するだけでなく「このような事実はない」「事実と違っている」など歪めたり、隠ぺいしたりする人たちも出てくるようになりました。
最初は見えない振りだったけど、本当に見えなくなり、忘れ去られてしまう…。こうなってくると、行き着く先は悲劇しかありません。私は、MIU404はあえて「見えない」「存在しない」部分に焦点を当てることで、「そういう社会ってどうなんだろう?」「本当に正しい方向に向かっているのだろうか?」と問題提起をしているように思います。

「過剰な正義」の暴走にNO
もう一つ、MIU404が「見えない」「存在しない」をテーマに選んだのには、「正義」「善悪」の価値感が大きく関わっているような気がします。

臭いものにフタがインスタグラムだとすれば、こちらはツイッターを見れば顕著です。現在、ツイッター上では正義という名のもとに誹謗中傷が盛んに行われています。問題を起こした、問題発言をした人のアカウントは漏れなく炎上しています。罵詈雑言、脅迫など大量のリプライやメッセージが寄せられ、見るに堪えない状況です。現実社会にも波及し、実名や住所・電話番号が暴かれ、嫌がらせの電話やDMが送られ、ひどい場合には貼り紙をされる場合もあります。SNSでの誹謗中傷を苦に自殺する人も後を絶ちません。

なぜ、そんな誹謗中傷をするのか? それぞれに理由があるのだと思いますが、私はその1つに「行き過ぎた正義」があるのではないかと思います。

本来であれば「死ね」「消えろ」などの言葉は滅多に使われるものではありません。おそらく、ほとんどの人は日々生活する中で口にすることはないでしょう。でも、それが許される瞬間というのがあって、それが悪を罰する時なのです。

かつての人間社会にも公開処刑というのがありました。その瞬間には、みんなで石を投げて、罵詈雑言を叫んだそうです。SNSで誹謗中傷が飛び交う様子は、まさにそれに似たものがあります。「自分は正しい側にいる」「正義を行っている」という肯定感や興奮、ストレス解消が相まって、人はいつもならしないことまでしてしまうのです。

MIU404は前述したように、罰する側の刑事(正義)の力が限られています。法律、階級、部署、様々なものに自由な動きを封じられています。それでも彼らはその制限の中で、懸命に犯人に迫り、一つひとつの問題に向き合います。

かつての刑事ドラマでは、気軽に拳銃をぶっ放し、のべつまくなしに逮捕していた「強い正義」でした。MIU404がそういう正義ではなく、逆にもどかしいくらいの「弱い正義」を主人公に選んだのは、前述した「正義の暴走」という現状を踏まえた上で「そういうことはもうやめようよ」というメッセージを込めたかったからだと思います。

■まとめ(MIU404の企画意図・メッセージ)

MIU404の企画書に、きっと、こんな内容が書かれていたのではないかなと思います。
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「見えないものは存在しない」
「存在しないものには、心を砕く必要がない」
「悪に対峙したものは正義だ」
「正義は何をしても許される。悪を傷つけてもいい」
今の世の中にはそういう風潮が見られます。
でも、本当にそうでしょうか?
MIU404はそんな世の中に流されてしまった人、踏みとどまっている人、抗おうとする人、それぞれの葛藤や苦悩を描いたドラマです。
主人公は公的には存在が認められず、限られた力しか持っていない“弱い刑事”です。法律にしばられ、組織に疎まれ、世間体を気にする…そんな日陰者の刑事達が「自分達は本当に正しいことをしていると言えるのか」日々、葛藤を抱えながら、社会的には「見えない」「存在しない」とされる様々な問題に立ち向かっていきます。
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■もう一つの「0(ゼロ)」について

ここから先は最終話を見た上で、付け足した部分です。おそらくネタばれになるので、これから見るのを楽しみにしている」という方は御覧にならないようにお願いします。

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最終話を見終わって、「0(ゼロ)」にもう一つの解釈があることに気づきました。それは「虚無(何もない)」です。

「存在しない」「見えない」を傍観者側から見た「0(ゼロ)」の解釈だとすれば、「虚無感」は被害者や社会的弱者側など、当事者から見た解釈ではないかと思います。つまり、周囲から存在しない、見えないと言われ無視され続けたことによる、「もうどうにでもなれよ」という投げやりな状態です。

これを最も、顕著に表していたのが、久住(菅田将暉さん)です。
久住はMIU404のラスボスです。かなり早い段階で登場していましたが、綾野剛さんに、星野源さん、既にW主演状態なのに、そこに同じくらい主役級の人が登場するのは滅多にないことです。こんなに出てきたら見せ場を作るのが難しくなってしまいます。なので、私も初めはカメオ出演(有名人が端役で登場すること)ではないかと思っていました。

でも、実際は全く違っていました。久住は回を追うごとに、その存在感を増していきました。これは私だけの印象かもしれませんが、最終話で「お前らの物語にはならない」と顔を覆うシーンでは、それまでのMIU404が作っていた傍観者(マジョリティ)側の0(ゼロ)の物語を飲み込んだ(食ってしまった)印象があります。それぐらい鮮烈な印象を残しました。

では、この久住という人物は何者なのか? 作中、多くは語られていませんが、〈流された〉という発言から、おそらく、3.11の震災で何らかの被害を被った人間で、それによって人生を大きく狂わされた人間であることは間違いないと思います。

刑事ドラマのベタな展開ですが、犯罪があるからには、必ず犯行に至った動機というものがあります。最終話ともなれば、大ボスが「お前らが憎くてたまらなかったんだ!なぜなら…」みたいに大仰に語られるのが普通です。かくいう私も期待していました。久住のような非道な人間が、どのようにして生まれてきて、どのようにして怪物へと転じたのか。それを教えてもらえるのではないか。

でも、MIU404はその期待を大きく裏切りました。久住は志摩や伊吹達との生死を賭けて挑んだ戦いの後、二人に「どうしてこんなことを?」と問われます。少年ジャンプであれば「実は…」と思いを打ち明けたライバルを、主人公が「馬鹿野郎!」と殴って抱き締めて、夕陽をバックにハイタッチもしくは握手すること間違いなしのシーンです。

しかし、MIU404はそうさせませんでした。「何がいい? 不幸な生い立ち? 悲しいトラウマ? 何がお望みだ?……俺は、お前らの物語にはならない」久住にそれだけ言わせて、後は何も語らせませんでした。 

久住が社会の底辺に生きる人間達を犯罪者へと引き込んだように、それっぽい理由を語って、道場を引くことはいくらでもできたはずです。言いかえるなら、野木さんクラスになれば、どれだけでも犯罪の因果や根拠を作って、視聴者を納得させることはできたはずです。

でも、MIU404はそれをやらなかった。私はここに、作り手の配慮と覚悟を感じました。

悲劇に遭った人を見ると、「大変だったね」「分かるよ」など口にしがちです。でも、悲劇に遭った方々(マイノリティ)の悲しみ・苦しみは、彼らだけのものであり、外から伺う人(マジョリティ)が安易に語るべきものではありません。人の生き死にや人生がかかった出来事に関しては、なおさらです。

しかし、日本の社会はそうではありません。日本に限らず、今の人間社会に言えることです。毎日、ニュースでは多くの悲劇が生産され、SNS上に取り上げられています。事実と異なる報道・書きこみもたくさんあります。被害者はこんな人だった、加害者はこんな趣味があった、事件の背景にはこんな出来事があった…およそ事件・事故とは関係のない物語が付され、ラベリングされていきます。多くの同情の声も寄せられますが、最初だけで、次から次へと生まれて来る悲劇の前に、いつの間にか押しつぶされていきます。まるで、食い散らかされるように消費されていくのです。 

3.11についても同様です。今の福島の現状を一体誰が省みているでしょうか。久住の悲しさ・苦しさは、その言葉通り、「埋もれて、流されて」しまいました。

もし、事件・事故が発覚すれば、3.11がすべての原因だと推測されるでしょう。ちょっと前まで「見えない」「存在しない」と言っていて無理解を装っていたくせに、3.11が出てくると「なるほど」と分かったような気になってしてしまう、それがマスコミであり、今の社会です。久住はそれを良しとしなかった。

・・・安易に俺(達)を理解できると思うな。
・・・この闇を、お前らなんかに理解できるはずがない。
・・・この悲しみが、悔しさが、お前らなんか分かってたまるか。

野木さんをはじめ、作り手の方々は、こういった当事者の複雑な気持ちを可能な限り代弁しようとした結果、多くを語るのではなく、「お前らの物語にはならない」という一言に込めたのだと思います。

ちなみに、これはドラマとしては本来、やってはならない行為です。ドラマとは物語を生み出すものなのに、「物語にはさせない」と否定してしまっているのです。
極論を言えば、ドラマの作り手が、ドラマの限界を露呈したわけです。

たとえば、私はコピーライターの仕事もしていますが、商品・サービスの魅力を言い表さなければならないのに、「言葉では言い尽くせないほどのすばらしさ」なんて言ったら、どうでしょう?仕事を放棄したと思われてしまいます。それと同じようなことをしているのです。

これが、たとえば、私のような駆け出し・半端者の脚本家がやったら「それはいかん」となったでしょう。技量が欠けているからこうなってしまったのだと言われることは間違いありません。でも、MIU404の脚本家は野木さんです。野木さんが、ドラマの限界を示唆したのだとすれば、それはそのまま限界なのだと言うことです。

付け加えると、ここで言う「限界」とは無力・力不足という意味ではありません。「謙虚」のような意味ではないでしょうか。

最近、大阪なおみ選手が米国でBLM問題に抗議するために、テニスの公式試合をボイコットして話題になりました。これはテニスの大阪選手だけではありません。他のスポーツ、たとえばNBAでも同様のことが起こりました。

ボイコットの理由を彼らは「テニスやバスケよりも大事なことがある」と語ります。それはテニスやバスケの限界を露呈したということですが、必ずしも自分達が無力だと言っているわけではありません。

野木さんをはじめ、MIU404の作り手がやったことも、私は同じようなことだと思います。MIU404の撮影時期は、奇しくも新型コロナウイルスの感染拡大時期に重なりました。当初の企画段階から、大きく変更を余儀なくされたでしょう。

正義が暴走し、真実が隠ぺいされ、分断が進む。地球規模の未曾有の危機的な状況の中で、ドラマは一体、どのような役割を果たすべきか。作り手には、大いなる葛藤があったのだと思います。彼らには、やろうと思えば、すべてのキャラクターを懐に収め、全能のように振舞うこともできました。

でも、彼らはそういうやり方に、あえて「NO」を告げました。「見えない」「存在しない」とされる問題と真摯に向き合った結果、当事者の「分かるはずがない」という言い分を謙虚に受け入れたのだと思います。大阪なおみ選手が試合をボイコットしたように、大好きだからこそ、ドラマを少しだけボイコットしたのだと思います。

これらは、すべて私の勝手な解釈です。ネットのどこを覗いても、そんなことを書いている人はいません。野木さんをはじめ、作り手の人も考えもしないことかもしれません。でも、私はそんな風に受け取りました。いいドラマとは、多様な人が「これは自分の物語だ」と思えるドラマだそうです。MIU404は、まさに私のドラマでした。とても、いいドラマだと思います。

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