見出し画像

つれづれ夜話 拾遺 ①

~「父の知人」のこと~


「つかれる」中で私をいきなり叱っては延命十句観音経を唱えさせたり、アクセサリーをふんじばったりしている「父の知人」。

この人とも相当長いお付き合いになるのだが、ああいう書き方をすると、どう考えても私が

「怪しい拝み屋のオッサンを出入りさせているヤベー家のヤベー女(洗脳済み)」

にしか見えなくなるなと読み返して思った。
やだほんと文章って難しい。

実家がある意味「ヤベー家」なのはもうしょうがないにしても、「知人」については確かに怪しいオッサンではあるが、拝み屋とか霊能者とかいうものをお仕事にしていない。

彼は小さな町の治療院の院長先生である。実家では通称「センセー」。もう「オッサン」よりは「じいさん」の領域に足を突っ込んでいらっしゃる。
なかなかにキョーレツなご仁だ。

我が実家、そして私と妹とのご縁はこんなことから始まったと記憶している。

たいへんにアクティブな経歴の父母が中年になって古傷がみしみし痛みはじめ、治療院難民になっていた頃だから、県庁前にナウマン象が闊歩していたくらい昔のことになる。(いつだよ)

私は中学生だった。

その頃、父方の祖母が出先で転んで、ほぼ寝たきりになってしまった。前日まで元気に立ち働いていた母親が、いきなり寝つくはボケの徴候が見られるは、で親父はほとほと参ってしまっていた、らしい。
 通い始めたばかりのセンセーのところで、治療中にそのことをこぼした。

「じゃあ連れて来ればいい」
しれっとセンセーはそう言い、親父は祖母を治療院に連れていった。車から治療室まで、親父が担いで運んだ。

私は親父のあとから荷物を持っていったので、そのときのことをよく覚えている。

──三、四十分かかる治療のあと、祖母はすたすたと自分の足で歩いて車に乗った。

奇跡を見た、と思った。


その後、虚弱体質の妹の体質改善だの、母の更年期だので他の家族も通うようになり、とうとう思春期こじらせた私まで連行されるようになった。
更年期や虚弱体質はともかく、拗らせた思春期に効果がどうだったのかはさておき。

センセーがいちばん凄かった時期を間近で見られたのは、ある意味「学校では教えてもらえないこと」を学ぶ機会をもらえたといえる。

オカルトとの付き合い方、人間というもの、そして最大の学びは「ひとを信用したり信頼したりすることは大切だが、それが『信仰』や『盲信』になってはいけない」ということだ。

センセーは別に宗教家でもなんでもない。
えらく広く深く学んだものを、うまく使いこなして仕事をしている人なのだ。

実際に見ていると『なんでも治す不思議な治療院』ではないことがわかる。自分の手に逐えるものと逐えないものを、ちゃんと分けている。
うちの祖母のアレも、妹のそれも、母のも、センセーの得意中の得意分野のことだった。

じゃあセンセーは普通の人なのか、と言われると悩む。

通い始めた頃に、午後の治療時間を待っていたとき、誰もいないはずの治療室の中からカーテンが開閉する音が聞こえた。
当時はまだ古い建物で、センセーは昼休憩は少し離れた自宅に戻っていた。待合室の数人が、思わず顔を見合わせた。

「音、しましたよね?」
「……したねえ」
「オバケ?」
とざわついた。

すると、隣町の、これはあとから親に「あの人は拝み屋さん」と聞かされたおばさんが

「センセーは神様がついてるからオバケなんかここにはこないわよ」

と言った。

「じゃあ、神様ですか?」
「神様はいたずらなんかしない」
じゃあなんなんだよと思っていたら、
「お待たせー」
とセンセーが戻ってきて、話はそのまま有耶無耶になってしまった。

あれからずいぶん長い時間が経って、そのときの建物は取り壊されてしまった。
 あのときカーテンを開閉していたのがなんだったのか、未だにわからないままだ。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?