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そちら側へ行きたい


アーティストは時折何を言っているかわからなくなる。何を伝えようとしているのか、それが全くわからなくてイライラする。そのイライラは相手にではなく、うまく感じたことを表す言葉が自分の中にないという苛立ち。何も伝えたいとも思っていないのかもしれないのに。

今なら分かる。感じなかった訳ではない、20年近く経ってようやくわかる。ただ言葉にならないっていうことだったのだ。


今私は何十年も前に夢見たことに再び着手している。こうして時折手探りであの頃の香ばしい記憶を掘り起こしながら。もう一度あの頃の出来事を体験し直すのは不可能なのだとわかるから文字を追って旅をする。そこに紐づいた記憶が思っていたよりもしっかりと思い出せる。


「本当に思い浮かばない?」と言う。彼はシンガーソングライターだ。私が曲が作れないということに関して心底不思議そうに言う。私は「出来ない!やろうとするともやがかかったみたいになる」とすぐに返したが、またすぐに考えた。本当だろうか?

本当は、浮かんでいる。全てが綺麗に浮かぶわけではないけど、断片的にメロディが浮かんだりすることもある。夢で誰かがその曲を歌っていることもある。それはスマホのボイスメモにいくつか残っている。それはあまりに未完成でダサい、と自分が思うから表に出ないだけであった。なきものにしていたのは私自身だ。

本当はあるのに、何故浮かばないというのか。それは恥からくる。そんな未熟な私の中身を出すことが辛いのだ。ダンスをする時も過去に笑われたことで、恥ずかしさから人前で踊らなくなったことを思い出した。こんな思いをするなら私は表現しないことを選んだ。受け入れられなきゃ意味がないと。





いつだったか、震災のボランティアで出会ったシンガーの方を、この私にしては珍しくバーに誘ったことがある。彼女のライブを一度訪れたことがあった。その時に彼女は自身のキーよりもかなり高めの曲を作ってしまったことに関して話をしていた。

「高いと思ったけど、曲がそこに行きたがってたからそうした」と。その時の私は何言ってるんだろう、と思った。曲が行きたがってるとか、何それ。と。私にはわからない感覚だ。やっぱり生み出す人と消費していく私では感覚が違うんだと。そこにすごい苛立ち、そしてそうやって生み出されたその曲も私の心を揺らすことはなかった。

だけど、それでいいのだ。全ての心を震わせられるか、またそんなことを考える必要もない。自分のその時の最大エネルギーであるかが大事だ。そのことは心に何かを残す。ライブの映像を見せてもらったけど曲は思い出せない。ただ、彼女の楽しそうに踊り歌う動きと、その言葉は何十年も私の心の残っている。彼女の真実で、彼女の純粋なエネルギー。


私も、創作を日常的にしない人も上手いか下手かのクオリティを気にする。上手いが善で、下手は悪だ。これは最近受けた不思議なボイトレで聴いたことの受け売りだが、クオリティはその限りではない。

自分の今できる最大の表現であるか、今出せる最大エネルギーであるかのクオリティ。創造的に生きる上でのクオリティはおそらくそちらのことだろう。

私は決して歌がうまいわけではないのだが(MISIAさんのような歌だけで心を揺らせるわけではない)この声を気に入っている。そんな私が最大エネルギーを注げるのは自分で作った歌だろうと、何年も前から知っていたのに、私にはそんなことをする価値もなければ、そんなアーティストにはなれないとかなんとか、散々言い訳をしてきたわけだ。

コンテンポラリーダンスをしたいと思ったのも、感じたものを出すための練習だったのかもしれない。本当に、おいそれと「好き」なんて言えない。簡単にそこを目指せるほど簡単じゃないそんな大切なものを手にする為に。なんて。

長く続けていればどちらのクオリティもそれなりに上がる。そんなアーティスト然とした人たちを前に、劣等感を抱くか批評家になるか、影のアーティストはその二手に分かれる。そうして評価する側にまわるアーティストには未だに怒りを感じてしまう。私もまた、劣等感を感じていた。自信満々に披露する彼らに、圧倒的に理解不能のような世界観をなんの躊躇も言い訳もなく出せる彼らに圧倒される。そんな彼らに私は憧れ続けていた。


そちら側に行きたかったのではない。私はそちら側に行きたい。



ノートにコーヒーがこぼれた。私はこの水滴で広がるインクの模様が好きだ。そこに何かはあったはずなのに、時が経ったら書いた本人すら忘れてしまうこともある。

こんな風に大切な言葉の上に落ちて滲んで、大切な歌詞を隠したいと思う。


ちょっと、何言ってるかわからない。

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