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私は私の人生を生きてきた。それだけ。これからも。

自分がどこにいけばいいのわからない感覚にしばしばなる。襲われるという感覚に近い。いつもいつも「何をしたらいいか」とい具体的なアクションを考えると手詰まりになる。


私ってなんて生きるのが下手なんだろう、と思う瞬間だ。今はその瞬間が連続している。


その後には決まってこれまでの実績や自分のもつ数字を見て絶望する。資産、実績。若いアーティストやクリエイター、インフルエンサー。私の方が大きい数を持っているとしたら年齢ぐらいだろうか。実績のある起業家、実業家皆さんの前では重ねるだけ重ねてしまったこの数字はなんの言葉も持たない。そんな風に思う。

だけど最近はその生きてきた年月を軽く見ている自分がいるのではと思う。年齢はもう関係ないような時代だという自分の前提はあるが、前提の方がどんどん前に歩いて、その他の数字や自分史に残る成果、且つ世間からわかりやすく実績として認められるものだけが価値であり「私が生きていきた人生の取るに足らない経験などこれっぽっちの価値もない」などと自分を下げすぎているのではないかと思う。

不安になるとすぐに承認を得られるものをしようとしだす。売り上げを上げる、たくさんの共感を獲得する。それを得ようとし始めて、その方向に何年も動こうとして何回沈んできたのか。その方向にしかあなたは進めないのですか?


人生が止まる時は大体視野が狭い。ぐるぐるしている方向に出口なんてない。そんな時こそダンスをするべきだ。


この文章がどこに着地するのかなんて私にはわからない。うまく書こうとか段落を作ろうなんて微塵も思っていない。何をしていいかわからないからもう指が動くままに流れに任せることにした。書きたいことなんてできた頃にはもう書き上げるだけのエネルギーはない。ならば書きながら燃やしていくまでよ。

これは最近たまにやる下手くそなダンスの真似事によく似ている。完璧主義が顔を出すとこのままどこにも出さず自分の中で処理したくなるが、これは出すべきなのだ。出したいと私の中で叫んでいる。

出したいと言っているんだ。そこに実績や数字や評価など関係あるだろうか。


これは私の人生。その全てが経験だ。不毛な恋をやり切った人並みな経験も、背骨を「ばきこ」と折られた世間から見れば小さく見えるかもしれないと思う挫折も全てが私の37年間の記録だ。そこから学んだことしか今の私は持ち合わせていない。それを元に生きている途中。

尊敬する人達が必ずしも人生の先輩ではない。余裕で人生の先輩のような若い人たちが沢山いる。だからって自分を下げる理由にはならない。まだそんなところにいるんですかと思えばいい。まだそのステージですかと言えばいい。それでも私は生きてきたしこれからも生きていく。

わかりやすく数字でしか人を見られずに、いつまでも何もできないふりをしていることに急に嫌気がさした。私の生きてきた道は誰とも比べられない尊いものなのだから。私の言葉で話すしかない。


私がもっているのは私だけ。私ができることはこれからもこんな私で生きること。誰の役にも立とうとしない、思ったこと私の感じたこの人生の何かを表現にするだけだ。どこまでもそれしかないのだ。何をするのか悩みながらしたいことをして超えていくしかないのだ。


だから、今日はこうして言葉を書いている。

詩のように洗練されていないしすることも今の私にはできない。

これに名前をつけるのなら…

人生のモノローグ

とでも呼ぶのでしょう。





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