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【全文公開】峯田和伸さんと僕のこと

あああ僕はなにかやらかしてみたい
そんなひとときを青春時代と呼ぶのだろう

GOING STEADY『青春時代』

ラストシングル『青春時代』の中でそう叫び散らしながら、2003年、大好きだったバンド「GOING STEADY」が解散した。

1年で中退した大学で僕は軽音楽部に所属していた。同級生4人で組んだバンドでは、僕が中学時代から好きだったブルーハーツやハイスタの曲と一緒に、バンドメンバーが好きだったゴイステの曲もたくさんコピーした。

大阪ベイサイドジェニーで初めてゴイステのライブを見た。バンドが放つ、その圧倒的な熱量に一瞬で虜になった。特にボーカル峯田和伸さんの狂気的な、それでいて切なさも感じるパフォーマンスを見て、わけもわからず涙を流した。

当時の僕はといえば、大学を中退して高校時代からの夢だったお笑い芸人への道を歩み始めたところだった。週3回深夜のコンビニでアルバイトをしながら、昼間は相方とひたすらネタ作りするだけの単調な毎日を、携帯プレーヤーから流れるゴイステの曲がどれだけ彩ってくれたことか。だからこそゴイステの解散は本当に衝撃的だった。

ある日、何気なくらのホームページを開くとそこには「解散」の2文字がつづられていた。あまりに唐突な知らせに、呆然とするしかなかった。
しばらくして、ボーカルの峯田さん、ドラムの村井さん、ベースの我孫子さんというゴイステの3人に、ギターのチン中村さんが加入する形で「銀杏BOYZ」が結成されたと知って、本当にうれしかった。

銀杏BOYZを結成されてから開設された峯田さんのブログは、神がかっていた。毎日毎日すごい量の文章がすごい熱量で書き殴られていて、ブログが更新されがちな夜中の2時から5時くらいの間、パソコンの前にへばりつき定期的にリロードし続けた。タイミングよく更新直後にブログを読めた時は、なんだか峯田さんとつながれた気がして妙にうれしかった。

「夜中に高円寺を歩いていて、昔を思い出した」とか「下北沢ディスクユニオンの裏の路地でメンバーとケンカした」とか、行ったことすらない東京という街で繰り広げられている峯田さんの毎日に思いをはせた。

峯田さんとチンさんで、談志師匠の独演会に行かれた日のブログもよく覚えている。
当時の僕はまだ談志師匠、というか落語にすら出会えていなかったから、「大好きな峯田さんが尊敬している方」というくらいにしか談志師匠を認識できていなかったのだけど、それでも念願かなってようやくチケットが取れて会へ向かっていたその道中で、遅れそうなのにどうしてもウンコをしたくなって、どうするか悩んで、結局ウンコにも会にもなんとか間に合ったこと。初めて生で見た談志師匠がすごく優しそうだったこと。最後、お客さんが会場から出るまで談志師匠がひたすら高座の上で手を振ったり写真に応じたりしてくださっていて感動したこと。そんな事がつづられていたと今でもハッキリ覚えている。

そんなおり、僕は仕事の関係で上京してきた。イクイプメンというユニットで活動していた僕は、運良く東京の制作事務所に拾っていただき、活動拠点を東京に移すことになったのだ。

上京してすぐに、仕事の関係でなんとその峯田さんとお会いできることになったときは心底「東京ってすごい」と思った。夏になる少し前。少し暑くなり始めたころだった。出演させてもらったヨーロッパ企画『冬のユリゲラー』の公演終わり、打ち上げとして下北沢の居酒屋で飲んでいたその場に、峯田さんもいらしていた。
大人数の打ち上げで、また自分は一番年下だったので肩身も狭く、そんな状態で大好きな峯田さんにこちらから話しかけることなど、もちろんできるわけがなかった。
周りの先輩方に気を使っているフリをしながら遠めに峯田さんのことを見るのが精いっぱいで、ブログで読んでいた通りジンジャーエールを飲んでいらっしゃる姿を見るだけで、無性にうれしかった。ただのストーカーだ。
大人数での1次会が終わり8人くらいだけで2次会として下北ハウス(ヨーロッパ企画の東京事務所)で飲むことになった、その8人の中に峯田さんもいた。連日の公演明けだったので、2時3時と時間がたつにつれてみんなが寝落ちしていくなか、僕はもちろん寝るはずがなかった。2DKのうちの一部屋は雑魚寝スペースになっていて、もう一方の部屋でひっそりとバカ話をしていた。
深夜の下北沢で、お酒を飲みながら皆でワイワイするなんていうのは、京都にいたころはそれこそ憧れだけの世界だったので、そこに自分がいることが不思議で仕方なかった。
4時、5時とさらに時間が深まったころにヨーロッパ企画の中川さんが、「人羅さんは峯田くんのすごいファンなんですよ」と、急に橋渡しをしてくださった。もしかしたらいじりの一環だったかもしれないけど、酔っ払っていたこともあり、いかに峯田さんに影響を受けたのか思いの丈をひたすら述べた。峯田さんは素面だったから引かれてもおかしくなかったけど、「はは、ありがとう」と、軽く受け流してくださった。それがきっかけとなって、峯田さんは僕に向けていろいろな話をしてくださった。また同じくらい僕の話を聞いてくださった。
「どこに住んでるの?」
「駒場東大前です」
「あぁ、あそこの公園よく行ってたよ」
「そうなんですか?」
「ずいぶん前だけど、あそこで○○したよ」
ここではとても書けないような思い出話がすっと出てくる引き出しの豊かさに、夢見心地ながら、やっぱりすごい人だなぁと思ったりした。
気がつくと朝になっていて、先輩方はほとんど寝ていた。
「そろそろ帰ろっか」
という峯田さんの一言で、一緒に帰ることになった。
もう人生の絶頂だなと思った。
「どこに自転車止めてるの?」
「スズナリの横の路地です」
「あぁ、あそこで昔メンバーと大ゲンカしたよ」
「はい、ブログで読みました」
「そっか」
「はい」
「じゃあそこまで歩こうか」
と2人でサンダルをペタペタさせながら、日差しがまぶしい下北沢の街を歩いた。
峯田さんにとって何気ないその一瞬が、僕にとっては紛れもなく峯田さんのブログで読んでいた、峯田さんの日常の一部だったので、それだけで泣きそうになった。

いよいよスズナリが近づいてきた。

「もうすぐ終わってしまう」

残念に思いながら、少しでもいろいろなことを聞こう、話そうと会話に夢中になっていた。
スズナリに着いて、
「じゃあ僕はタクシーで帰るから」
とタクシーに乗り込む峯田さんを見送っていると
「あっ、そうだ。連絡先交換してもらっていい?」
と、優しい峯田さんらしい言い回しで電話番号の交換をさせてくださった。
「いつでも電話してよ」
と言い残して茶沢通りを消えていく峯田さんを見えなくなるまで見送ってから、「ウォー!!」と大声を上げた。
スズナリ横の急な坂を立ち漕ぎで駆け上って、家へ帰った。

あれからずいぶん時間がたった。
イクイプメンは解散して、僕は落語家になった。
談志師匠は亡くなられたし、銀杏BOYZは峯田さん1人になった。
取り巻く環境はずいぶん変わったけど、本当のところはあのころからそんなに変わってない気もする。

「あああ僕はなにかやらかしてみたい」。
そんなひとときを青春時代と呼ぶのなら、
僕はまだ青春時代を過ごせている。


[追記]
1、
『現在落語論』を出してしばらくした頃、峯田さんがインスタに書影をアップしてくださっていて嬉しかった。読んでくださったのかな。(今みたら、中川さんがコメントしてくださっている。みんな優しい。)

2、
『鮫講釈』で参加したhow to count one to tenのアルバム『Method of slow motion』が発売された頃、中央線で峯田さんとバッタリお会いした。出会いに照れるなという水道橋博士の言葉に背中を押されて、声をかけた。「あの時の人羅ですが、いま落語家になりました。これCDが出たのでよかった聴いてください」とお渡しできた。

3、
ソーゾーシーでの山形公演で山辺の噺館に行ったら、同じ町内に峯田電機(峯田さんの実家のお店)があって腰を抜かした。

4、
前座の頃、師匠の『自我の穴』というネタのクライマックスで「ブチギレた演技をしながら客席に乱入する」という役を任されたとき、「まさかあんなに振り切った演技ができるとは思っていなかったよ」と褒めてもらえた。峯田さんみたいにやろうと思って本番に挑んだのだった。

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※この投稿は「日経スタイル 2016年4月6日」に寄稿した文章を元に、少し修正したり、リンクをつけたり、追記を書き下ろしました。
WEB連載は気がついたらデータが消えてしまっていることが少なくないので、保存の意味も込めて。

掲載元はこちら
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO99243730U6A400C1000000/

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