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落語を上手くなりたい

※この文章は、國學院大學とnoteで開催するコラボ特集の寄稿作品として主催者の依頼により書いたものです。

 昨年末に落語家にとって最も高い身分である『真打』への昇進が決まったこともあり、いま、これまでにないくらいの熱量で「落語を上手くなりたい」と思っている自分がいる。
 プロの落語家として、日々稽古に励んで芸を磨くのは当然だけど、これまで僕は「落語を上手くなりたい」というよりは「面白い落語を作りたい」という想いで稽古に向き合うことの方が多かった。これは似ているようで、少し方向性が違っている。

2023年11月8日の会で真打昇進が決まった。
師匠の立川談笑と、
ゲスト出演してくださった立川談春師匠。

 「面白い落語を作る」とは、言い換えると「『なにを喋るか』について考えること」に他ならない。自分にしか思い付けないような独自の発想に満ちた新作落語を生み出して、同業者やお客様に驚いてもらいたい。そんなことを考えながらこれまで膨大な時間を作業場で過ごしてきた。ありがたいことに、そんな自分らしさの詰まった新作落語で2022年には若手落語家の登竜門である『NHK新人落語大賞』で満点優勝することができた。
 近頃では新作落語の文脈において「立川吉笑」というポジションを少しずつ確立できつつある手応えもあるくらいだ。

2021年初夏に作った『ぷるぷる』は
現時点での代表作となった。

 普通に考えたらこのまま「自分らしさ」や「独自性」、つまりは長所を伸ばすことに時間を費やし続けるべきだと思うが、欲張りな僕は、これまでの自分が疎かにしていた部分、つまりは短所を埋めてみようと思い至った。正確にはこれまで通り長所は伸ばし続けつつも、同時に少しずつ短所も埋めてみようと考えている。
 そんな都合良くいくかと嗤われる気もするけど、一方でそれくらい抜本的に活動の濃度を変えないと今後の大きな進歩は見込めないとも思った。

 いま順調に落語家人生を歩めている自覚はあるけど、入門当初に目指していた目標はもっともっと遠くにあったんじゃないのか?
 そこへ辿り着くための努力を、振る舞いを、いまの自分は本当にできているのか?

 真打昇進が目前に迫り、また40歳を迎える今年、改めて考えることになった。

真打になるということは、
次の世代に落語を受け継いでいく、
その大事な役割を担うことでもある。

 そんな自分が疎かにしていた部分が「落語を上手くなる」ということで、これは言い換えると「『どう喋るか』について考えること」に他ならない。「なにを喋るか」と同じくらい、それを「どう喋るか」が大事なのは明白だ。なぜならどれだけ面白いことを考えられても、それをお客様に伝えられなかったら元も子もないから。
 もちろん落語を演じる上で、「なにを喋るか」と「どう喋るか」を切り分けることなどできないから、これまでも自分の作った落語がより面白く伝わるように喋り方について工夫をしてきたつもりだけど、その解像度をもっと高めるべく意識を張り巡らせることにしたのだ。

創作落語『歩馬灯』の終盤。


 例えば、「大人と子供が向かい合って喋っている場面」を落語で表現しようとする。これまでの僕はせいぜい身長差を表すために

大人側で喋る時は少し下を向いて喋る。
子供側で喋る時は少し見上げて喋る。

 というくらいにしか演じ方の意識をできていなかった。

 もちろんそれでも間違いではないけど、どうやら正解はもっと他のところにありそうだと気付かされた。と言うのも、いわゆる名人と称されるような落語の上手い師匠が演じる大人と子供のやり取りを改めて凝視すると、子供側で喋る時でも顔の角度は変えずに目線だけを上に向けておられることに気づいたのだ。首ごと上を向かずに上目遣いを強調することで、子供の可愛さやあどけなさが自然と伝わってくる。
 そして大人側で喋る時は、同じく顔の角度はほとんど変えずに、今度はあごを少し持ち上げて、それでも目線を少し下に向けることで身長差を表されていた。これは二人の物理的な距離感が少し遠いことを表すための工夫かもしれないし、もしかしたら会場が大きな劇場で客席がすり鉢状になっていて自分の位置よりも上にずらっとお客様が広がっている空間だから、そこで下を向いたら席によっては表情がほとんど見えなくなってしまうから、できるだけ顔は正面を向いたまま目線やあごの位置で高低を表されている可能性もある。

 「大人と子供が向かい合って喋っている場面」ひとつとっても、ひとたび解像度を高くするとこれだけ考えることが出てくる事実に愕然とした。自分が実感していた以上に落語の奥は深い。
 さらには声の出し方高低息継ぎのポイント間の取り方など、他に考えるべきこともたくさんある。凄腕の師匠方は無意識でピタッとそんなたくさんの要素の最適解を出すことができるのだろうけど、自分の場合はまずは「ひとつのシーンにそれだけの要素がある」ということを把握・実感し、「この時はこうする」「この時はこうする」とそれぞれの場合における振る舞いを規定していくところから始めなくてはならないのだろう。

 これまではひたすら長所を伸ばしてきたところ、今年からは同じように長所を伸ばしつつ同時に短所を埋めようともしている。となると、落語のために費やす時間をこれまで以上に増やさなければいけないのは明白だ。
 いま僕は他の何かを犠牲にしてでも「落語を上手くなりたい」と思っている。それだけの価値が落語にはあると信じているし、勝負所だとも分かっている。そして、この道を邁進した先にある一回り成長した自分の落語の可能性に他ならぬ自分自身が一番期待している。

※本記事は、特集「#今年学びたいこと」への寄稿として執筆しました。その他の作品や、國學院大學×noteのコラボ特集の詳細はこちらでご覧いただけます。
https://note.com/topic/feature/p/collabstudy

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