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自我

はじめに、こんな幼かった自分ですが、なんとか5月5日を待ちまして22歳になりました。皆さんのおかげです、ありがとう。にしても、もぉ歳ですね。

22歳、本来であれば社会人になる歳。ある意味ターニングポイントですよね。なのでここで未だ未解決な僕の問題をここで定義させて下さい。最初に言っておきます、別に病んでる訳ではありません。不思議なんです。

では、、、

中学時代から、寮生活を始め、高校大学と別の県に行き、大学時には2度の留学も経験した。そのため、比較的にいろんな人、人種、国、性別、性格の人に出会ってきたほうであると思っている。そんな中で、色んなことも学びながら、考えさせられてきた。しかし、そんな中で僕が思ったことは、

「じゃあ、そんな自分は誰なのか?」

サッカー選手、ミュージシャン、医者、モデル、誰でもない、分かっているのは、22歳男性で大学生。その他にも明確な事実はもちろん存在するが、ここで論じたいことは、そんな当たり前のことではない。自分という人間は一体何者なのか、なぜ生まれてきたのか、何か使命でもあるのか、どんな価値を社会もたらせるのか。しかし誰もそれについて教えてくれない。もしかしたら、誰も知らないのかな。

このような気持ちを持ち始めたのは、5.6歳の頃、親の運転する車のなかで後部座先で自然と似たようなことを考えていた。まるで、自分が第三者となり自分を自分で客観的に観る、まさに幽体離脱のような感覚だったことを鮮明に覚えている。しかし、今まで、それをどのように表現したらいいかわからなくて、あまり人に話したことはないが、この前たまたま誰かが同じような文を書いてることをみて、とても共感したので今回自分も言葉にしてみた。

今この文を書いている最中も、なんか不思議な気持ちになる。でも、そんなもんなんだろう。自分でいるにもかかわらず、自分が誰かわからない。誰かに生きる理由、生まれた理由を聞くと、そんなこと理由なんてないよ。と誰かはいう。本当にそうなのだろうか。

逆にあなたは、「あなたは、誰?なぜ生きてるの?なぜ生きたいの?」と問われたときに、正しく答えられるだろうか? 僕は間違えなく、NOだ。なんなら、なぜ死んではいけないのか?死とは決して悪いことなのか? でも人は100%確率でいつか死ぬ。別に死にたいわけではない。

誰かが悲しむから? じゃあ、この世界がもし滅びかけて自分1人きりになったら皆んなはどのように考えるだろう。それでも一人で生きていきたいと思うだろうか。僕にはわからない。

しかし、ひとつだけ僕が分かっていることは、僕は本当に人間が、皆んなのことが好きだということ。そして、彼らが喜んでる姿を見ることがなにより幸せだった。小さい頃からそうだった。そのため逆に、彼らが悲しい顔をしてると、泣いてると、自分まで悲しくなる。中でも、家族のことはなんなかんや1番好きだったかもしれない。なにか嬉しいことや幸せなことがあった時は、真っ先に誰かに報告したくなる。それは、自分よりも喜んでくれる人に育ててもらったからなのかもしれない。そのため自分自身も、もちろん嬉しいが、それを聞いて喜んでくれる家族の姿を見るのが何より好きだった。それだけ、家族からの愛を改めて感じた。ありがとう。

人は、本当に弱い生き物で、自分1人では孤独で生きていけない生き物だと思う。なぜなら、僕自身がそうだし、人は弱いから嫉妬やエゴにのまれるのだと思う。だから、愛が、気持ちが大切なんだ。優しさ大切なんだ。母にもよく言われてきた、強い人より優しい人になりなさい。と、そして、人の痛みがわかる人になりなさいと。

話を本題に戻すが、自分のこと、他者からみた自分のことを心理学では、自我と呼ぶ。また、自分自身の認識することを自我の確立という。つまり、ここで僕が問いたいのは、本来の自我とは何か。

そんな中で僕が行き着いた1つの答えは、自我とは、「自分の中での大切の優先順位」。

自分は、何が好きで何が嫌いなのか、何が大切で、何が不必要なのかなど、自分自身で自分を判断していくからだ。つまり、自分の周りが自分という人間は誰なのかを教えてくれるんじゃないかと思う。

僕は、昔から悲しいことや辛いことがあるとそんな自分を心の中で押し殺して、無理矢理強がって笑おうとする。でもそれは、本当は、その痛みで崩れ落ちてしまいそうな自分を守るためだった。

でも、自我を理解しようとすることによって、自分が22年受けてきた、たくさんの人からの愛と、優しさ、想いやりを感じ、理解することができた。

だから、もう一度、誰かを、自分を信じてみようと思う。

ありがとう。







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