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#63 理解の及ばぬものと向き合う

1月29日。金曜日。一週間の終わり。今日はもう、寒かったよ。

そんな今日の話題は【理解の及ばぬものと向き合う】ということで。今日も若干、暗い話になりそうだよ。本当はもっと愉快な話をしていきたいのに、残念だ。

今日の記録

最近、夜に寝付けず。そして朝も起きれず。今日は12時頃起床。お茶漬け。支度してバイトに向かう。

バイト中、必死に必死にレポートを書く。本日の17時提出締め切り。どう頑張っても間にあう気がしない。16時55分頃、見直しもほとんどせずに、提出。読み返してみて、感動する。こんなにゴミみたいなレポートが書けるだなんて、、、

18時頃、お腹がすいて晩ご飯。レポートのショックで箸が進まず。なんとゆうショック(夕食)。今夜は冷えるね。

その後もだらだらと、調べ物など。酷いレポートを出した日は、終わった安心感よりも自己嫌悪が強くなりがち。来週にはもう一つ課題もあるため、切り替えていきます。

理解の及ばぬものと向き合う

(3000字ぐらい)

「エコーチェンバー現象」という言葉がある。閉じたコミュニティにいると、自分と同質的な声を何度も聴くことになり、本当は極端な主張であっても、それを一般的に正しいものと信じてしまう現象のことだ。メディア論でよく指摘されるもので、SNSでの分断を語るときにしばしば持ち出される。

で、おそらく「大学」という空間も、エコーチェンバーになりやすいよなあと思う。特に大学院にまで行くと、似たような価値観の人が周りを占めるので。そうすると、「これは一般的な価値観なのか? あるいは大学という空間に特有のものなのか?」というのが、たまにわからなくなってしまう。ので、最近は世間のBuzzについていくために、↓のようなサイトをチェックしている。

このサイト、Twitterやnoteやはてなブログのバズ投稿をまとめたもの。見てみるとわかると思うが、「人気ツイート」「ゆるいニュース」「かたいニュース」に分けられていて、それぞれ関心のあるトピックが選べるようになっている。

「研究室に籠もって、専門書ばかり読んでいるのはよくないよ」と思って見始めたこのサイト、何がよいかと言えば、世間一般の反応が見られることである。例えば、たくさんシェアされているニュース記事やnoteの投稿について、Twitterやはてブでどのようなコメントがされているかチェックできる。こういうの、今まで僕はYahoo!ニュースのコメント欄を読むということでしかやってこなかったので、ありがたい(ちなみに、Yahooニュースのコメント欄は「ヤバい保守派の主張が多い」というイメージがあったのだが、別にそこまで極端ではなかった。し、ちゃんと専門家の補足コメントが目立つところに来ていた)。

で、大学で勉強している分には向き合わなくてよいけれど、こういうときにまじまじと向き合うことになるのが、何かこう、自分の理解を超えた何かである。そうとしか言えない。その一つには例えば、人々のむき出しの悪意があるし、根強い偏見や差別感情である。よくもまあそんな一方的に人を断罪できたものだと思ったりする。他には極端な右派思想であったり、コロナ警察過激派であったり、もう政権批判ができればなんでもよいの? という人だったり、いろいろ。他にはこの前バズっていたが、「和多志」でググると闇の世界が広がっているというのもある。こういうの、存在自体を知っていたとしても、そのコメントのひとつひとつを読むというのは、なかなかなかなか刺激的な体験になる(そしてだいぶ陰鬱な気持ちになる)。

あと、別の意味で理解を超えたものとしては、80プペルという世界があった。これも是非、読んでみてほしい。↓の記事が詳しい。

これ、ここで取り上げられている本岡さんについては、結構理解はできたし好感も持てた(反省記事とかいろいろ共感できたので)。ただ、同じく取り上げられているさいとうしほさんについては、彼女の記事を読んでみたけれど、もう完全に未知の世界が広がっていて、読んでいて怖くなった。これはまさしく、理解の及ばぬ何かであった。まあ、各自読んでみるべし。

プペルの世界は別として、こういうSNSに見られる悪意の塊みたいなものにどう向き合うか結構悩むという話。これらを見ていて何がストレスかと言えば、議論のマナーをほとんど備えていないことである。一つの立場から一方的な決めつけを行ったり、そんなこと書かれてないですよね? というところを取り上げて批判したり、あとは異なる立場から考えられる反論を一切考慮していなかったり。理性的な討議ができていないと言えるかもしれない。こういうのは、大学で扱う論文・書籍とかではまずはじかれるものなので、研究室で勉強する分には目に入ってこない。し、向き合う必要もないということになる。

のだが、論理的形式を備えていないからといって、そうやって無視し続けるのもどうなんかなあと思ったりする。僕はあんまり、「大衆は愚かで無知な存在だ」という、衆愚思想的なものは支持していない。し、むしろそこには反発したい立場である。一応は民主主義社会なんだし、エリートの専制も同じくらいよくないんじゃない? というか、なんというか。

僕が学部生時代、たいへん衝撃を受けた文章として、イギリスの裁判官パトリック・デブリンによる知識人批判がある。その文章は、以下の通り(訳は児玉訳を使用)。

彼〔教養人〕は通常の人よりも、説得の能力に長けているという利点を持っているし、またそうあるべきである。……彼は教えるだけではなく説得しなければならない。ロストウ学長曰く、「社会の共通道徳はいつでも、習慣と信念、理性と感情、経験と偏見の混合物である」。教養人が理性しか持ち合わせていないのであれば、また彼が慣習を軽蔑し、感情の強さを無視するのであれば、また彼が「偏見」や「不寛容」という言葉には不名誉な意味しかないと考え、宗教的信念に盲目であるならば、彼はアカデミアの外に出るべきではないだろう。というのは、もし外に出るなら、彼は自分の理解できない力と取り組まなければならないだろうから。…そのような人が裁判官や立法者に対して、自分が不合理だと思う法を作っていることを非難し、まるで民主主義社会において自分たちだけが理性を備えた行為者であり、一国民の思想をコントロールしているかのように振る舞うのは、幼稚な考え方である。(功利と直感 208,9頁、原文はPatrick Devlin、The Enforcement of Morals 95,6頁、強調は引用者)

コレはざっくり言うと「大学の内輪のやり方を信奉していると、社会に出たときに、感情や偏見といった理解の及ばぬ何かに苦しむことになりますよ」ということだと思う。苦しむというか、そうした人たちを説得することができませんよねという話。これは、その通りなんじゃないかと思います。我々にとって心地よい(理解可能な)ものだけ扱っていると、いざその外側と向き合うことになったときに、たいへんな思いをするような気がする。

中途半端だけど、今日言いたかったのは、そんな感じ。SNSとかね、ギスギスしたコメント欄とか、むき出しの差別感情を読むのはしんどいんだけど、まあ「読む価値なし」と視界に入れないのはよくないよなと思ったり。一応は、読んでみることにしています。だって自分の受け入れられないものを含んでの「私たちの社会」なので。そして「そういう考え方する人マジでいるんだ、、、」というのを実感しつつ、でもどうやって付き合っていけばいいんだというのを考えて、もやもやを抱くことですよ。最近は父親のネトウヨ化というのも進んでいるらしいので。

ちなみに、ニュートピのおかげで、今日のソースコード流出ニュースとかを知れたので、単純に情報サイトとして役に立っています。エコーチェンバー、積極的に崩していきましょう。

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ガチでサムネの素材がなく、水筒を撮る。暗かったのでちょっと加工したら、インスタ初心者みたいになってしまった。