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なぜわたしはとっ散らかり屋さんなのか(感覚の話の続き)

pixabayのAdriansartさんの写真に文字を乗せたもの

 こうして書くと、注意事項を書いているのに偏って感じる。それから、何かの主張のように感じる。(見ていて少し苛々する)
 これが表面的にはどう見えるかというと、全く変わらず明るく見える。
 下手をすると自分でも明るく元気なつもりで生活してしまうけれど、このくらい違和感が小さいうちに、何か対処するべきことがある。

 これが、落ち込んだ感覚や、自分への不信感だということに、早く気付けるようになっていて下さい。
 胸は何気なく苦しいけれど、この小さい辺りでバランスを取って、自分を盲信もしていないし、疑い過ぎてもいないところに心を置いていて。(外を見るとか、本を読むとか、他の信じられるものを探すのもいい)
 そんなことは出来ていますと言いたくなるのだけど、たとえば放置すると、不思議なことに、周りとの関係や反応が悪くなる。

 落ち込むようなことを言われたりなどして、顔には出さなくても本当に落ち込んで帰って来て、この人生に良いことなどないと思いはじめる。
 選び直して下さい。また自分を放置するか、確かな感覚だけ確認しに行って、探して見つけたものを宝物として形に残そうとするか。

 自分と周りに、集中し直せば、違和感が小さいうちに集中し直せば、違和感があったのに、外では人間の美しい面に触れたり、地球がまだ地球であって、自分の生活できる場所があると感じられることなどがあったりする。

 これは全て、自分の気の持ちようが反映されているものなのだと聞いたことがあるけれど、それについてどう思って、どう感じていますか。
 わたしは周囲も感覚を持っていて、微細な反応の違いが起こっているのではないだろうかと考えています。

 例えば、母親は朝から気が塞ぎながらもいつもと同じに振る舞っていたのに、なぜか子どもの方がわけもなく機嫌が激しく悪くて、泣いたり、何が嫌と言っているかわからないけれど嫌がっていたり。

 それで、自分が荒れたり落ち込んだまま進んで、一人一人がそうして荒れたり落ち込んだまま進んでぶつかって苛々したり自分を責めたりするよりは、感覚に集中した方が目的に近くなる。
 もっと大きな結論はないかと思うけれど、ところで何が大切で、どんな自分を叶えたいかを忘れないでいて下さいよ。
 よくそれを想像しないと、自分も周りも世もどうでもよくなって、何をしているのかわからなくなるから、あなたは決めたらそれを忘れずにいなくてはいけません。

 物理的にそれが可能な状態を作るには、手放しで全て叶うなら、それは望んではいないでしょうから、またわたしも浅はかで、こうして理想の状態というものを考えて、そこに向かって感覚を鋭くしていると、前に困っていたことでは全く困らなくなっていたりしてそこで安心したりしている。

 これが落とし穴なのですよ。感覚を研げる場面がまだここには無数にあるのに、わたしは大変に鈍い馬鹿だと自分で思う。けど無数にあるのにまだ気付けていないだけなのだということには、興奮してしまいますよ。それは全て可能性ということです。

 次は、未来を言うときの感覚について書いておこうと思います。

難しいです……。