大人の巧妙より上の巧妙(未来を言うの続き)
わたしが勘を働かせようとしたときに見るものは何なのか。
それは記憶から統計を取って最も可能性がある場面を示しているのか。
だとしたら、子どもの頃のわたしには、統計を取れる程の膨大な記憶はないのだからおかしい。
大人の勘への信用度が、子どもの勘への信用度より低くなるのは、これは大人が巧妙だからではないかとわたしは思う。
それで、実際に大人のわたしは意思が働き過ぎているとよく見えないし、子どもの頃よりも自分を疑うようになっているし、色々と邪魔な考えが多かったからわかるけれど。
伝えたかったことの一つには、この自分を覆ってしまう邪魔な考えは取り払えるという実感があります。
大事なことを考えているときに、どれが邪魔をしている考えかを見分けられれば、誰でも鮮明に、自分のことと周りのことを感知することが出来ると、思ったわけです。
本当に望遠鏡のようになって、自分でも知らない場面を映し出しているとしたら、わたしは人の体には、そのような機能が備わっているのだろうと思う。
そしてそれは、あまり基本的な機能ではないと考えられるかも知れないけれど、わたしの経験では、基本の基本ではないかと思う。
何も思わないまま目を覚ましたり、水を飲んだり、食べ物があると食べたりするのと同じように常々働いているではないか、ということです。
ただそれはね、生存本能じゃないかと思うでしょう。望遠鏡みたいになるのは生きるのとは関係ないじゃないかってね。
難しいです……。