七草にちかが起こした「平凡」という幸福
今更にはなりますが、今回はアイドルマスターシャイニーカラーズに登場するアイドル「七草にちか」のW.I.N.G.攻略後の感想を述べていきたいと思います。
W.I.N.G.におけるネタバレが満載なので、ご注意ください。
・七草にちかは何を求めていたのだろうか
七草にちか、というアイドルはアイドルマスターの中でも、更にはアイドル全般としての中でも極めて異質と言える存在である。
アイドルを成長させる立場のはずのプロデューサーから満点で「平凡」を貰っている。
同じシャイニーカラーズに登場する園田智代子ほど何か色を獲得しようともしない。天海春香のような牽引する力もない。島村卯月のような満開の笑顔もない。これまでアイマスが打ち出してきた「普通」とも一線を画す存在である。
加えて言うなら技術の面でも「平凡」であったし、ダンスも歌も全て「かつて華々しい活躍をしたアイドル」の真似である。
独自性もなければ、何かをしたいという具体性もない。ただただアイドルが好きで、アイドルになりたい。それ以上もなく、それ以外もない。
では、彼女はアイドルになることで何を求めていたのだろうか?
達成感や憧れ、あるいは承認欲求などというものではない。
あるコミュで彼女はアイドルを辞めなくてはいけない状態に陥ってしまう。その状況で彼女は独白のように語った。
何かを成し遂げたい人間が、何者かになりたい人間がこのような言葉を言うわけがない。
では、何故彼女は自分の首を締めながらもアイドルであり続けようとしたのか。それほど強い想いは一体どこから生まれたのか。
それは、彼女がずっと追っていた「かつて華々しい活躍をしたアイドル」から生まれたのだろう。
・七草にちかという証明者
七草にちかのアイドルになりたいという気持ちの原点であり、彼女が憧れ、追い求め続けたアイドルの名は「八雲なみ」という。
八雲なみの存在は七草にちかを語るにあたって外せない。
七草にちかは八雲なみの「そうだよ」という曲を聴き続けて、そのパフォーマンスに焦がれ続けてアイドルを続けてきた。
これだけ見れば、普通の子がアイドルに憧れたという普通の話で終わってしまうのだが、そうではない。
そこまで聞き続け、追い求め続け、探し続けたアイドルとその曲に対して、プロデューサーと七草にちかは語り合わさずとも同じ感想を抱いていた。
八雲なみの歌う「そうだよ」はW.I.N.G.期間中もそれ以前でも、確かに七草にちかを勇気づけていた曲であった。
ただ一時期とはいえ伝説的に輝いていたアイドルの持ち曲に対して悲しいと思っていたのは、ファンからすればどこかちょっと外れた感想である。
それでもそう感じたのは、七草にちかが己の中にある「平凡」を八雲なみの中に感じ取ったからではないだろうか。
憧れていた、かっこよかったと言いながらも、無理矢理靴を履き、血を流している八雲なみの姿が彼女の曲から伝わっていたからではないだろうか。
事実、「そうだよ」という曲名は後から決まったものであり、七草にちかが見つけた白盤(発売前の試聴版)には八雲なみ当人の字で「そうかな?」というタイトルが記されていた。
この事やプロデューサーが収録に実際に立ち会ったスタッフから聞いた話からも、八雲なみが決して完璧ではなく、造られたアイドル像を完璧に成し遂げていただけだったと言うのが判明する。
にちかは、この事実を無意識ながらずっと分かり続けていたと考えられる。
そうすれば、八雲なみという幻影を追い続け、自分のために何かを成し遂げようともしないままアイドルで有り続けていた理由も自然と分かる。
七草にちかは、自分の身で八雲なみを肯定したかったのだ。
アイドルで居続けること。
自分に合わぬアイドルという靴を履き続ける事。
それは果たして幸せなのか否か。
七草にちかの中では、長い間「そうだよ」と八雲なみによってその悲しみを肯定され続けた。
そして七草にちかもアイドルになった。
悲しくても苦しくても、普通じゃない自分に無理にでも成り続けるのは楽しいんだと八雲なみに背中を押してもらえたから。悲しくても完璧なアイドルで居続ければ「幸せなんだよ」と八雲なみが肯定してくれたから。
それ以外、彼女には何もなかったから。
しかし真実は違った。
八雲なみも、七草にちかと同様に「そうなの?」とアイドルで居る事に疑問を抱き続けていた。
W.I.N.G.優勝後、姉である七草はづきとの約束を果たしてアイドルを続けられる事が決まり、七草にちかは涙を流す。
その涙は、優勝に浸る涙だけではなく、悲しみながらも完璧なアイドルであり続けていた八雲なみにも捧げられていた。
この時点で、八雲なみの真似をし続けた七草にちかは八雲なみの存在が正しかったと証明したのだ。
同じ悲しみを帯びた人間が、同じやり方で成し遂げる。八雲なみが現代でも違っていなかったと自分の身をもって証明する。
プロデューサーから七草にちかは「くすんだコピー」と言われた。
しかし、そのコピー品で居続ける事こそ、七草にちかが求めていたものでは無いのだろうか。
またそう考えると、以下のシーンも違った見方が生まれる。
このシーンは、七草にちかがプロデューサーに名前を聞かれ、咄嗟に偽名を出したシーンである。
ただ、七草にちかと八雲なみの類似性を知った上で見ると、この時点で七草にちかという少女がアイドルになるとしたら、八雲なみに酷似したアイドルになるという皮肉のようにも映る。
八雲なみという悲しみが、七草にちかに響いてしまった。知ってしまったから彼女は戻れなかった。だが彼女の全てを掛けてその悲しみを知っている人間がいると、そして彼女の苦労や悲しみは正しいんだと、無理に笑顔を作ってでも証明したのだ。
・七草にちかが創造したモノ
模倣による証明、それだけで七草にちかは何も生み出していないかと言われれば、そうではない。
彼女はとてつもないものを産み出した。
七草にちかは、本物の普通でもアイドルになれると証明したのだ。
これが、何よりの創造物だろう。
それがどれほどの偉業なのか、W.I.N.G.シナリオ内での表現でも感じられた。
セリフとして残ってはいないが、七草にちかとの出会いのシーンで、彼女は一人で空に向かって言う。
文章になっていないのでバクすら疑った演出だったが、クリア後になんとなくこの意味がわかった。
これはまさに七草にちかの事だったのではないだろうか。
八雲なみのコピー。同じことの繰り返し。反響音。
本来は、そうであっていたのかもしれない。もしくは冒頭のこのシーンではその程度の存在に過ぎなかったのかもしれない。
だが、彼女はきちんと証明した。
決して、反響音では出来ない域の模倣を成し遂げた。
八雲なみが1人で「そうかな?」と呟いたものに、コピーであるはずの七草にちかは「そうだよ」と返した。
そんな2人のアイドルによる時を超えたキャッチボールは、本来は成し遂げられない。
何故なら、やまびこは本来同じ言葉しか返してこないのだから。同じ音しか返せないはずなのだ。
それでも、そんな有り得ないを七草にちかは成し遂げた。
自分の身を厭わない執念と、怨念にも近い憧れ。たったそれだけで奇跡にも近い事を成し遂げた。
模倣が、本物を凌駕したのだ。
それほど普通の人間がアイドルになることは凄まじいことだ。
何者にもなれない。何も持っていない。
多くの人間の成果物を目の当たりに出来る昨今では、そんな無力感は一般的なものになりつつある。
それは、執念と憧れでひっくり返せるのだ。
アイドルは、漢字で表記すると「偶像」である。
崇拝の対象とされるもので有り、神聖なものを形にしたものである。
七草にちかは今、普通の人間では出来なかったはずのことを成し遂げてしまったが故に、この世に多く存在している「普通」からの信仰を背負う。
その期待はあまりに重く、1人の人間が背負い続けるにはあまりにも酷な役割だろう。
そう、七草にちかの物語はこの証明で終わりではない。
まだ、七草にちか自身は笑顔になっていない。
W.I.N.G.シナリオ内で言われていた通り、これから先は「にちか自身の時間」になる。
八雲なみが証明してくれた「普通でも輝ける」その先。
それを今度は七草にちかが生み出し、同じく普通を抱え込んだ人へと届けなくてはいけない。
確かに造られた存在でも幸せだと、幸せになれるんだと、七草にちかはこれからもかたり続けるだろう。
これからの彼女の物語が、どうか幸せである事を願ってやまない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?