ペルソナ5Rで戦うのはプレイヤー自身
!ネタバレ注意
本投稿は、ペルソナ5Rの感想です。
その為、ペルソナ5Rの最後までネタバレを含んでおります。
その点にご留意して、読み進めてください。
ペラペラの理想論を語るラスボス
ペルソナ5Rをプレイしてパレスを持ったボス達と相対したときに、恐らく多くのプレイヤーが思ったであろう。
「これ、誰かに似てんな……」
特に鴨志田であったり、獅童であったり……。ペルソナ5無印の発売当初は2016年であったことを思えば、色々とギリギリのラインじゃないのか……なんて思うようなキャラクターであるのは間違いないだろう。
そんな見た事あるなぁ……と既視感に襲われるパレスの面々にロイヤル版で追加されたのは、丸喜拓人だった。
彼を見たパッとした印象は、個人的には特に言うことはなかった。
眼鏡、もじゃもじゃ頭、白衣、心理カウンセラー。
追加される要素としては色も濃いけれど濃すぎるわけでもなく、相応しいなぁという特徴ばかりだったし、違和感なくペルソナ5の世界に溶け込んでいた。
だが、パレスを作った後の丸喜と話していて感じた。
彼は思っていた以上に狂っていた。
実際にプレイした人は特に分かるが、彼の言葉にはずっと重みが無い。
「救いたい」「助けたい」
そういう言葉が彼の口から何度となく語られるが、彼自身から飄々と語られる理想に、理由が伴っていると分かったとしてもどこか薄気味悪かった。
「君の為を思っているんだ」「どうか分かり合いたい」
どれだけ彼が良い事を言っていて、実行しようとしているのを理解出来たとしても、心情としてどこか納得できない部分があった。
多くの人々が傷付いている事に対して本気で苦心した彼が実行したのは、あらゆる人の苦しんだ原因をなくし、人間が傷付くという事を根本的に無くす。
言われるだけなら確かに素晴らしい世界だと思う。
だが、聞こえはどれだけ良くても、どうしてもそれを肯定できなかった。
他のパレスを持っていた人間の汚い欲望の方が、理解は出来なくとも納得が出来る言葉を並べていた。
それがどうしてそう思ったのか不可解なまま進んでいたが、いつの間にか蘇っていた明智や、芳澤姉妹の出来事を追っているうちにふと気が付いた。
彼が人間が傷付いた事象全てを改変して傷付かない世界へと変貌させているからだ。この大規模な人間への救済は、人々がこれまでしてきた経験全てを『無かったこと』にしている。
この『無かったことにする』のは、勿論長い間共に歩んでいた主人公たち怪盗団にも言える事だが、共に歩みを進めてきたゲームプレイヤー自身にも言えているからこそ、彼の言葉は私にも響かなかった。
P5Rラスボスが行ったゲームプレイの否定
長い時間をかけて自分の手でプレイする。
ゲーム内の経験を、実際の経験と重ねて経験する。
これは漫画にもアニメにもない、ゲーム特有の体験である事は違いない。
その時間の共有を活かしたゲームであれば、UNDERTALEや直近で言えばNEEDY GIRL OVERDOSEなども挙げられるだろう。
その自身の手でプレイして、プレイヤーの好奇心がゲーム内の世界を「壊す」さまを、プレイヤーの選択が1人の少女を「壊す」さまをマジマジと見せつけられた。
自らの手でゲーム内のキャラへと苦しみを生む。この強烈な体験は多くの人に忘れられない体験をさせたに違いない。
最後の最後、人々を幸せにしたいと言ってきた丸喜拓人はこのゲーム特有の時間の共有を通して、プレイヤーの攻略してきた時間をも否定しているのだ。
明智の言った通り、この攻略してきた時間が誰かの手によって勝手に変えられてしまうという理不尽も勿論ある。また、芳澤すみれが見せてくれたような苦境から立ち上がる美しさをプレイヤーは幾度となく見てきたが、それをも丸喜に否定されてしまう。
ゲームプレイ当初、あれだけ苦痛な想いをした志保を何事もなく救って、中盤であれだけ悩ませた双葉のお母さんを特に何もなく生き返らせる。
作中でも問題の中心となった出来事を、ハイ元通りと出来る事なら嬉しいのは違いないけれど、じゃあこれまで積み重ねてきたはずの苦労や悩みは一体何だったんだろう、と知らないうちに今までの道のりを否定された気持ちが生まれていた。
これまで進んできた道のりではゲーム内のキャラクターだけが悩んだわけではない。各ボスを倒すのに悩んだ時間、ペルソナの作成やコープの進展、それをしてきたプライヤーの時間をも丸喜拓人は一緒に否定している。
ゲーム内であったとしても、これまで全ての悩みが無くなる、と言うのはそういった過去全ての否定に繋がっている。
もし丸喜拓人が考えていた現実がかなった場合、途中経過や悩んだことなど無意味に過ぎない。たとえ乗り越えた先に達成感や今までにない力が手に入ったとしても、苦痛が発生している時点で丸喜が描く理想ではない。
そうして考えると、聞こえはいいはずの丸喜拓人に抱いていた気持ち悪さが浮き彫りになった。
彼の言っている言葉は確かに聞こえはいいし叶えばいいが、全ての途中経過を無視して「人が傷付かない」という幸せな結果だけを求める人間だったのだ。
そう思うと、丸喜拓人に抱いていたぺらぺらとした薄い言葉の気持ち悪さの原因や、キャラクター達が抱いていた「許してはいけない」という気持ちがより深く理解出来る。
彼は人の努力や頑張りそのモノを否定している。
そして、人間に対して幸せになって欲しいと言いながらも、傷付いた人間が立ち上がる可能性をも否定している。
これは、人間の否定に他ならない。
P5R最後の標的は『ゲームプレイヤー自身』
丸喜拓人の『より多くの人を苦痛から救いたい』という願いは、クリスマス前まで陰ながら世界を救う為に戦ってきたプレイヤーには、こんな他人任せだらけのクソな世の中じゃなくなるなら良いかもしれないと思ってしまう部分もあった。
こうして揺らがされたボスは、丸喜拓人だけではない。
クリスマス前にやってきた統制の神もまた、プレイヤー自身を揺らがせるようなキャラクターだった。
ロイヤル版ではクリスマスに立ち塞がり、無印版では同時期に登場しながらもラスボスを飾っているヤルダバオトは、常に人任せで怠惰な人間を批判し、変わらないのであれば統制を敷くしかないと人間を支配する事を宣言した。
これは、現実の人々への批判でもある。実際に無印版をプレイした時にはこれまでに無いほどドキリとさせられた。
欲望は人間が何かをするための原動力である。それを無くした人間がどうなるのか、そして今画面に向き合っている自分は、電車に乗って自ら牢獄の中へと飛び込んでいこうとする無欲な人間ではないのか。
過ぎた欲望は汚いと言った。だが、その汚い部分も含めて人間ではないのだろうか。
そう思うと欲望を否定し続けていたこれまでが恐ろしくなり、同時に自分が牢獄の中で気持ちよさそうにしている人間にはなりたくないと反逆したくなる気持ちが芽生えた。
この統制の神ヤルダバオトから、キャラクターを通じてゲームプレイヤーに対する投げかけは無印版でも行われていたと読み取れるが、丸喜拓人はそれをより強烈にしている。
現実で思った事がある。
「誰も傷付かなければいいのに」と考える事がある。
大きな壁にぶつかった時に多くの人が、こんな出来事無かったことになればいいのにと考えたこともあるだろう。
そして何より、なれるわけがないと分かってはいても、こんなキャラクター達みたいに才能あるスーパースターになれたらいいなと思う。
それが叶うわけがない。
そしてもし叶ったとしても、叶えて良い訳がない。
無意識に抱く決して叶わない幸福への憧れは、プレイヤー自身が既に丸喜の願いと共に打ち砕いていた。
そう考えると、丸喜拓人が派手じゃなかったのにも納得がいく。
彼はプレイヤーのシャドウとしてゲームの中に生まれたのだ。
丸喜拓人自身がパレスを持ちながらも派手な人間ではなく、大切な人を失った経験からこれ以上同じような経験で人々が傷付かないようにと奮闘する最も一般人に近しい存在だったのは、僕らゲームをプレイした人間の隣にいる存在だからだ。
ほんの少しのずれだけできっと、丸喜と同じように過程を無視して結果だけを追い求めてしまうようになってしまうのかもしれない。何かあれば、もしくは何かが無かったから、人間は簡単にネジを外すことが出来るし、誤った道を信じぬく事が出来る。
そうして、過程を無視して怠惰に結果だけを求めてしまう。
丸喜の願いを信じることはクリスマス前に登場したヤルダバオトへ全てを任せていた牢獄の中の人間と変わらない。自分の幸せを掴み取るのに誰かに任せっぱなしにする事は、あまりにも怠惰だ。
過程無き結果は虚しく、寂しい。
結果さえ掴んでしまえば確かにそれも幸せと言えるかもしれないが、これからもその道なき空虚な人生を生きていかなくてはいけなくなる。
口で言えば簡単だが、憧れへの険しく長い道のりを手探りで進み続ける事は容易ではない。言ってしまえば、自分がヒーローになるわけじゃないと認めていることに近しい。
それでも、長く険しい道のりをきっと進めると、未来の自分自身を信じる事を、怪盗団は、そしてゲームプレイヤーは最後に選択した。
全てが叶うわけじゃない現実を、両の足をつけて歩んでいくとゲームの中に存在した救世主に宣言してしまったのだ。
ならば、それを守り通すのが信念であり美学であるのだろう。
冴さんが言っていた。
今度は大人がちゃんとしなくてはならない。
汚れた世界だったとしても乗り越えていけるように、改心した彼と同じように頑張っていきたいと、エンドロールを見ながら思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?