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2024年発行の新壱万円札の顔『渋沢栄一』人に思いやりのある人物だった!

#渋沢栄一 #合本主義 #朱子学 #大隈重信 #ステークホルダーキャピタリズム  #新札 #新紙幣
渋沢栄一を称して、日本資本主義の父とよぶ!のが一般的だ。しかし、私は、近代日本の[銀行家・事業家・福祉家の父]と呼んでいる。
実は渋沢栄一は、日本の偉人の中で最も人への思いやりがあった人物なのでは!と考えているからだ。

渋沢栄一のおこなったことを、まとめればまず、第一に、銀行により明治政府の基盤を作ったこと。第二に、福祉事業に乗り出し、いくつもの施設を作ったこと。第三に、多くの学校設立に関わったこと。
どれもが、人を苦しさから救うという心から行ったことだ。

明治維新後の日本、近代国家として歩み始めたばかり。まだヨチヨチ歩きで、どうなるかわからない。そんな中で、欧州の国家に負けない国づくりを目指したが、そう簡単ではなかった。そもそも、これという人材がいなかったのだ。

明治政府の要人は、ほとんどが武士によって占められていた。武士は、日ごろから朱子学を学んでいる。実はこの朱子学、経済の基本である商売を、蔑視する教えだ。朱子学においては、商売は卑しいこととみなされていた。ここに問題があった。渋沢栄一は、14歳から商いの経験がある。しかも、商売は人が生きていくうえで大事な職業という考えも持っている。

明治になったばかりの日本、まだ不穏分子が街をうろついていた。政府が転覆されるのも、十分におこりえること。そこで、明治政府は廃藩置県という考え方にいたる。藩主を、皇族に祀りあげることで、収入を与える。だが、一方で、今まで抱えていた借金をそのまま明治政府が肩代わりするわけにはいかなかった。そもそも金がなかったのだ。しかし、明治政府には、これを解決する知恵がなかった。

ここに渋沢栄一に、明治政府が頼った理由がある。
渋沢栄一の生まれは、埼玉深谷の豪農の家。子供の頃から、藍玉の製造販売と養蚕をしていた。ところが、当時日本では尊王攘夷運動がはびこっていて、加担してしまう。幕府から追われる身に!そんなとき一橋慶喜の側近から家臣にならないかという誘いがあった。悩んだ末、生き残る道をえらぶ。この時たまたま、慶喜の弟の徳川昭武が、パリ万博の使者として行くことになった。渋沢栄一は、会計係として随行することになる。そして、2年間ヨーロッパを視察する。これも偶然なのだが、彼らを世話したのが、フランスの銀行家フルーリエラールだった。渋沢栄一は、この銀行家から欧州経済の仕組みを学んでいく。  

帰国後は、大隈重信から明治政府の大蔵省で働くよう持ちかけられる。そして役人になってからは銀行設立に尽力することに…。渋沢栄一は、諸藩の借金問題にも、この銀行を通して解決していった。その後は、野にくだる。いち民間人として、銀行業務に携わっていく。そして多くの銀行設立に関係した。

この後、渋沢栄一は、民間企業や銀行、大学など5百社を設立。さらに福祉組織を6百ほど作っている。

岩崎弥太郎とのエピソード。
渋沢栄一と、岩崎弥太郎のエピソードとして有名なものに『料亭事件』がある。1878年に向島の料亭で、岩崎が渋沢を呼びだす。岩崎は自分の経営理念を解いたところ、渋沢はそれに反対し、喧嘩別れをしたという。

この事件は、2人の会社経営に対する考え方の違いを如実に表している。岩崎弥太郎は、気性が荒く、攻撃的であり、自分の利益を重視した。そして市場を独占しても良いという考えの持ちだった。まさに個人主義、利己主義の考えといえる。

いっぼう、渋沢栄一の考えは、全く逆のものだ。それは渋沢栄一の代名詞、『合本主義』にある。まず第一に公益を追求する。そのために最も適した人材と資本を合わせ集めて、事業を推進していくという考えである。

この合本主義は、孔子の影響を受けている。孔子は、人間の生き方として[仁と礼]を重んじた。仁とは、親愛の情であり、思いやりや同情心という心から、他者を配慮するということを意味する。礼とは、社会の規範であり、仁の表れである。

まとめ
現代社会においても、いまだに個人主義や排他主義が罷りとおっている。一方で、渋沢栄一の合本主義ときわめて似た考え、ステークホルダーキャピタリズムがあり、企業の社会的責任のあり方を示すものとして注目されている。


如何でしたでしょうか?今回もお読みいただきありがとうございました。

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