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真言宗の開祖『空海』 その不思議に迫る!

#空海 #真言宗 #弘法大師
#サンカ #司馬遼太郎  

我家の近くには、真言宗の寺がある。聞くところによると、ここの住職は、元サラリーマンだったようだ。我家が引っ越してくる前の事だが、どうしても自前の和尚が欲しかった町の人々。土地を寄進してまで、求めたという。そうして見つけたのが、今のお坊さんというわけだ。

今回は、その真言宗の開祖「空海」について見ていこう。この空海という人物、とくに謎が多いことで知られている。作家の司馬遼太郎、その著作「空海の風景」をもとに、その不思議を探っていこうと考えた。

*不思議 その1
まず、その出自について。奈良時代の末期77 4年に生まれている。現在の香川県善通寺市に住んでいた讃岐国の豪族、佐伯直田公(サエキアタイタキミ)の次男だった。

この讃岐の佐伯氏、司馬氏によると、その元は「佐伯部(サエギベ)」だと言う。その意味するところは、人が聞き慣れない異語をつかう場合、騒(サエ)ぐように聞こえる!」。そこからサエギを文字にして佐伯になったとしている。つまり、佐伯氏一族は、大和朝廷とは別の人種だったようだ。

もともと讃岐という土地。「ハタ」や「アヤ」の人々、つまり渡来人が多く住んでいた。ハタは機織り(ハタオリ)、紙漉きの職人を指す。アヤは、中国系の技術民「漢人(アヤヒト)」。紙は、陰陽師にとって必需品。紙に呪(ジュ)を書きつけて占いをする。この苗字も中国から渡ってきた一族の人々だった。そんな土地で育ったのが空海と言える。

*不思議 その2
空白の7年間。父親の佐伯直田公としては、息子を官僚にしたかったと思われる。ゆえに官僚養成学校に入れられた。しかし空海は、すぐに中退してしまう。18歳の時だ。

ここで「三教指帰(サンゴウシキイ)」という文章を書く。ヒトには上下関係など全く意味を持たない!…と。そしてインド発生の「六道輪廻」について語っている。

そうして向かったのが、山での修行だった。ここで1人の乞食僧と出会う。寺では、正式に学んでいない僧であったが、この当時の日本では、まだ誰も身に付けていない「雑密(ゾウミツ)」の知識を持っていた。「虚空蔵聞持(コクウゾウモンジ)」、つまりその秘術を、空海に授けたようだ。

*不思議 その3
この当時、中国へ行くには莫大な金がかかった。同じ遣唐使として中国に渡った最澄。彼の場合、国の金で行くことができた官費僧だった。しかも通訳までついた身分。それに比べるとか一文無しの空海。簡単に行けるはずはないといって良い。

もうこれは後ろ盾がなくては無理だ。考えられるのが、佐伯一族と、母方の叔父「阿刀大足(アトノオオタリ)」の援助だったろうこと。一族のなかで最も優秀とされた青年。彼を全面的にバックアップしたと思われる。

*不思議 その4
まず空海が乗った遣唐使船。台風の影響で流され、たどり着いたのは4船のうち2船のみ。しかも船長があろうことか、国書も印符も持っていなかった。そこで空海が漢文で書をしたためる。それを役員に渡すとすぐに入国が認められたという。

唐にはいった空海だったが、半年間、様々な人種の人(インド人、イラン人、アラビア人)などと交流したようだ。

そして、当時、中国で最も力があった阿闍梨「恵果(ケイカ)」の元へいく。すると、初対面の恵果「あなたこそ、私の待っていた僧だ」と言わしめた。千人もいた弟子、そのなかで空海は一夜にして筆頭になったという。なぜ、普通で話ができたか!なぜ密教、最高の知恵をもった恵果に信頼されたか!ここは不思議だ。

まとめ
中国で、空海は重要仏典を全て写しとった。日本を出て2年半で帰った空海が、自分で写し取るのは不可能だ。おおくの者たちを使った事は間違いない。その費用は一体誰が出したか!ここも不思議といえる。

さらに不思議なのが、高野山という土地だ。空海が開いた真言宗の総本山が「高野山」。この高野山という土地の下は、水銀の鉱床がある。この水銀、高値で取引されており、潤沢な活動費を空海にもたらしたといえる。これがなければ、真言宗の力は、そう強いものにはなっていなかったはずだろう。

これら不思議の答えは、空海の出自にあるといっていい。山の民、技能集団「サンカ」の流れをくむ一族の出身だったことだ。土木の知識にも長けていたのであろう。だから、四国讃岐の「満濃池」その災害も、空海の手により防ぐ工事を行うことができたということだ。

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