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日本を代表する会社トヨタ。このトヨタが世界のTOYOTAになった理由、それは日本初の国産車開発だった!

#プロジェクトX #トヨタ
#トヨタ自動車 #国産車

大学1年生のとき。自分の周りの友人たちが次々に運転免許証を取った。こうしてはいらないと、自分も教習所へ通いだす。そこではじめて乗った車が、トヨタのクラウンだった。ただ近いだけということだけでいった教習所だったが、トヨタ車の魅力に引き込まれたそんな記憶がある。

日本は、1945年8月終戦となる。日本の至るところにあった主要都市と軍需工場は、米軍の徹底した空襲により、壊滅的な損害をうけた。しかし、その中で奇跡的に免れた会社もあった。その一つが愛知にあったトヨタ自動車の工場。トヨタは、戦前戦中にトラックをつくっていた会社だ。

社長の豊田喜一郎は終戦に際して「これからの時代は、国産乗用車を目指す!」と、内外に向けて、声高に発言していた。このとき、車体工場の主任だった中村健也(33歳)。新聞に載ったその記事を読んで、心を揺さぶられたそうだ。

努力家で勉強家の中村。仕事が終わると、すぐに帰宅し、10,000冊以上あった蔵書(数学工学)を片っ端から読んでいた。そして会社の役員に建議書を提出する。戦後3年目の1948年のことだ。総額25億円を出資してもらい、国産自動車を開発するというもの。役員は「なんて、とんでもないことを言うんだ! 25億といえば、会社の利益の60年分になる!」と取り合わなかった。

この話を聞きつけた社長の豊田喜一郎は、すぐに中村の所へむかう。自分の志を継ぐ人間がでたか!という思いだったようだ。結局、社長の「鶴の一声」で開発にむかうことになる。すぐに銀行から借り入れた。

しかし、事態は思わぬ方向へとすすむ。翌年の1949年、アメリカから経済特使ジョセフ・ドッジが訪日。銀行からの企業融資ストップをかけたのだ。これにより、日本中の企業が倒産の危機となる。トヨタの取引先も、次々に潰れる状況。トヨタも困りはて、銀行に再融資を申し込むも、逆に返済を迫られる始末だった。

従業員への給与も払えず、労働組合が決起。全従業員6000人が立ち上がった。口々に言うのは、乗用車開発が経営を圧迫している!納入先企業も、部品を持ちかえる始末だった。結果として、1600人の解雇と、社長の退任となった。

ところがここで、日本を救う風が吹いた。1950年7月、朝鮮戦争が勃発したのだ。アメリカ陸軍は、トヨタに対し、トラック4000台を注文してきた。これによって、トヨタは倒産を回避することになる。

トンネルを抜け出ることができたトヨタに、米国フォード社から提携の申し出が舞いこむ。このとき常務の豊田英二は、いそぎ中村の家に向かったという。開口一番、「フォード車が手に入った!一緒に乗ってみないか!」と…。

トヨタの役員のほとんどが悩んだという「外国から技術をもらうか?自社で独自に開発するか?」。フォード車にのった中村。しかし自分の信念は変わらなかった。常務にたいし「国産車で勝負させてください!」と言いきったという。

13歳で結核を患い、病弱だった中村。しかし、その気持ちは誰にも負けないというものを持っていた。そして、すぐに市場調査をする。タクシー会社を次々に回り、車への要望を聞いていく。帰りはいつも深夜となった。

それから3ヶ月後の1952年3月に中村は設計仕様書をまとめ、メンバーに披露する。独自エンジンR型1500c c、最高時速100キロメーター、流線形のボディー、観音開きドア。部品総数は20,000点となった。

すぐに試作車の開発にはいる。ポイントは、スポット溶接機を使うことだった。大量生産するには、従来の方法では無理。この方法で行くしかない。しかし、メンバーのほとんどが反対したという。前例がないからだ…。

9ヶ月後、試作車は完成する。開発メンバーが固唾をのむ中での試走。テストの結果は散々だった。コイルバネは折れ、溶接部分は外れた状態となる。

それぞれの部品担当者は、中村へ泣きつく。しかし、中村はなんの指示もしない!それが中村の信念だった。「下手な指示は、部下の独創性を殺す」ということだ。

各担当の部下は、それぞれ自分の頭で考え始めるようになる。ボディー担当の藤井義裕は、中村から「鉄板の材料、そのものを見直すようメーカーと交渉しよう」という言葉を聞いた。

コイルバネ担当の守谷茂は、神奈川県のバネメーカーを視察。コイルに、小さな鉄の玉を当てることで、バネが強くなることを発見する。

溶接がうまくいかない理由は、型紙がベニヤ板だったことによる。湿気で板が歪んでいたのだ。隙間ができることで溶接にムラができた。型紙を変えることで何とかなるのでは?そこで、ポリエステルフィルムを使うことを考え出す。すぐに商社へ向かい、ポリエステルフィルムを分けてもらうことで解決する。これにより、スポット溶接でも十分な強度を確保できたのだ。

開発から5年、1955年1月に目的とした国産車第1号「クラウン」は完成する。それを聞きつけた新聞社から1つの提案が出された。英国ロンドンから、東京までの50,000キロメートルを走らないか…。自信を持っていた中村。この話に乗ることにする。1956年4月ロンドンを出発した車は、8ヶ月後には、見事に東京まで走りきった。

まとめ
トヨタ以外の自動車メーカー、日産やいすゞは、海外メーカーとの提携の道を選んだ。そんな中、あえて国産車にこだわったトヨタ。これは豊田喜一郎と、開発責任者の中村健也の力が大きかった。トヨタは、この後次々に独自路線を進み、世界ナンバーワンの企業となる。また、中村は役員への就任を断り、一研究者として、エネルギー効率の良い車を目指したという。

いまEV車で遅れをとったと言われるトヨタ。しかし、このスピリッツは、脈々と受け継がれ、新たな挑戦で世界を席巻していくと私は思っている。30年停滞している日本。しかしまだまだ技術大国の日本だ。その力を世界に見せてくれることを期待する。

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