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WBC第5回優勝監督 栗山英樹の采配術とは

#今年のふり返り
今年2023年の日本、最大の出来事は、侍ジャパンがWBC第5回大会で優勝したことと言えるだろう。日本中に熱気が広まった。

その侍ジャパンの監督が、栗山秀樹。彼の仕事術を見ていこう。
(1 )人間関係を作るのが得意
選手としては6年と言う短命に終わったが、その後20年にわたり、テレビやラジオで、スポーツキャスターや解説者という仕事についた。その仕事のなかで、人脈を築いていく。選手や監督そしてOBなどの取材で知遇をえる。

今回の侍ジャパン、MLBパドレスの投手ダルビッシュ有とはそうして気づいた関係だ。このダルビッシュ、本戦の1ヵ月前から来日して、侍をひとつにまとめる役割を果たした。これはジャパンをまとめるうえで大きかった。

大谷翔平もそうだ。大谷が高校卒業の時、本人はMLBを希望していた。それを承知で、ドラフト枠での獲得を目指す。栗山は綿密な資料を作り、説得した。高卒ルーキーがMLBで成功する確率は数%にも満たない。しかも、投打の二刀流などはありえないということ。結局、大谷は納得して日本ハム栗山のもとに入ることになる。

(2)信じ切り、任せる力
スポーツの世界では、コーチ監督がどうのこうの言っても、最後は選手の力量で決まるといっていい。ただ監督としては実績のある選手に、どれだけ信頼してるかを伝えるということだ。


今回の大会、準決勝でのメキシコ戦。この日、村上は3三振で全く当たりが出ていなかった。しかし、9回一打逆転の場面で、白石コーチに伝えたのは『村上に一言言ってきてくれ。ここはお前に任せる』 と。  村上本人は、バントか代打かと思っていたはずだ。この一言が、逆転サヨナラ安打を生み出したと言えるだろう。

(3)次の世代を育てる
栗山は、学芸大で教員の免許を取得した。しかし、プロ野球選手への夢を捨てきれず、ヤクルトの入団テストに臨んだ。そして晴れて“プロ野球選手“になった男。

選手としては、持病のメニエール病により6年で終わっている。しかし、気持ちのうえでは、プロ野球界を支えようと考えて行動していた。

引退から9年すぎたある日。北海道の栗山町から思いがけない申し出があった。それは、観光大使になってほしい。栗山は喜んで引き受け、栗山町に居をかまえる。そして、なんと自腹手づくりで、野球場をオープンした。栗の樹ファームと名付けられたその施設は、無料で貸し出している。若い人を育てること、これも彼のライフワークだ。

この一件は、多くのプロ野球関係者の耳にも届くことになる。そして10年後、日本ハムからの監督オファーが…。選手として、栗山はそれほどの名声を得ていない人物。普通ではなかなか考えにくい人選である。

人を育てるという、プロ野球を愛するスタンスと意気込みが、評価されたと思う。そして、なんと監督就任1年目で、リーグ優勝を果たす。

監督のオファーが来たとき、コーチ・スタッフの人選を聞かれた栗山。栗山の言葉は「今までの人にお願いします」だった。こんな事はプロ野球界においてかつてなかったこと。多分、コーチ☆スタッフは、栗山に感謝すると同時に、一生懸命に仕事をした結果の優勝であろう。最後に栗山の一言。「セオリーにない僕が、選ばれた。だから常識の枠から外れた考えで行く」
これが、世界のスーパースター大谷翔平を産んだと言えるのではないか。

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