[人物伝]『シートン動物記』で有名となったアーネストTシートン。どんな人物だったのか?それを見ていこう!
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『シートン動物記』というタイトルの本は、日本でのみ通用する。外国ではこのようなタイトルにはなっていない。これは日本で『ファーブル昆虫記』が人気となったため、2匹目のドジョウを狙って出版社がこのタイトルにしたというのだ。目論見はみごとに的中する。この書籍、ほとんどの小学生は読んだのではないだろうか。私の通った小学校、その教室の奥にはこの本が置いてあり、いつでも読めるようになっていた。それで、『昆虫記』とともに『動物記』にもよく目を通したと記憶している。
*シートンの生涯① 25歳まで
シートン本人が自叙伝を著しているから、それに即して見ていくこととする。1860年英国サウスシールズに生まれた。父は海運業をおこない、かなり裕福だったようだ。シートンは14人兄弟の11番目。しかし6歳のとき父が破産する。一家は家族全員でカナダ・オンタリオ州奥地へ移住した。ほとんど金がないため開拓で生活するつもりだったようだ。
シートン10歳、カナダのトロントに一家は引っ越す。そこでシートンは地元の小学校にはいった。このとき木彫や木版画も始めている。14歳で高校に入学するが、一年で体調を崩し、生死の境をさもよったようだ。16歳、地元でナンバーワンの肖像画家の弟子となった。下働きで大した経験はつめなかったようだが、18歳で美術学校にはいることができた。すでに才能が開花し、首席となったという。
シート自身は博物学者となりたかったようだ。だが父は反対する。それでは食っていけない……と。画家になるなら金をだすと言った。しかしこの金、あくまで貸付であとで返済しろとも言っている。19歳になったシートン、英国ロンドンに修行の旅にでた。そこでシートンは学費のいらない名門「ロイヤルアカデミー」の試験を受けたが落第する。200人中6人しか入れない狭き門だったが、2回目の試験でみごと合格することができた。
このアカデミーに入ったことで、シートンはかなり得したと言える。大英博物館とロンドン動物園の無料入場パスがもらえたのだ。もともと博物学者となりたかったシートン。これを最大限に利用して、博物学の知識と動物の生態観察をおこなっている。しかし、実家からの仕送りは途絶えることも多く、金額も予定額には程遠かった。生活は困窮を極め、体調も崩してしまう。
入学してわずか10ヵ月、カナダにいる両親の元へ帰った。体調が回復すると、カナダ奥地で農場経営する兄の元へ……。そして23歳の時、ニューヨークに移住した。ここで会社に勤める傍ら、夜間の美術スクールにも通っている。どうやら挿絵の腕を磨くためだったようだ。ニューヨークに出てわずか4ヶ月、博物学会の例会で講演をおこない、その実力が認められた。
金銭的にはかなり苦しかったようだ。地元の出版社にゆき、自分の挿絵を売り込むと、ちょうど辞書をつくっているところで、その辞書に載せる挿絵千枚の仕事にあるつくことができたと言う。これによりシートン、やっと経済的な自立ができた。
*シートンの生涯② 26歳以降、
シートンの自叙伝を見ると、この後も目まぐるしく移住を続けていることがわかる。再び英国ロンドンにいったり、仏国パリ、兄のいるカナダ・マニトバ州や両親のいるトロントにも移り住んだ。各地でおこなった事は、絵の腕をあげることと、動物についての論文を書くことだった。
論文をいくつも仕上げ発表すると、その都度高い評価を受けた。この業績により、カナダ・マニトバ州の顧問博物学者にもなっている。一方、絵の方もたかく評価されたと言う。個展を開いたり、展覧会にも出品したのだ。ここで描いた油絵は高く売ることができた。その名声により、米国大統領Sルーズベルトからの注文も受けることに……。
33歳のとき、知り合いの米国実業家から手紙をもらう。自分の牧場が、狼に襲われ困っているというのだ。早速シートンが現地を視察、すぐに対策を考えだす。そして狼の駆除に成功する。ここでの狼の話しは、翌年雑誌に「コランポの王(和名:オオカミ王ロボ)」として発表した。
40歳になってからは、子供向けミュージカルも手がけている。野生動物をテーマとしたものだが、衣装のデザイン画や曲につける詩も書いた。子供の教育についても考えたようだ。子供向けの野外学習の場も提供。そのことで50歳になると、米国ボーイスカウト創立委員のチェアマンとなり、初代の団長となった。
*まとめ
シートンの才能にも驚かされたが、その父親の知識にも舌をまいた。絵を学ぶことが生計を立てるのに役立つ!これを見抜き、シートにやらせたことだ。しかしこの父、そうとう生活は苦しかったのだろう。息子にだした金はすべて貸付とし、稼げるようになってから返済を求めている。
シートン自身、絵を学びながら自分の夢である博物学者になることを実現させたのも素晴らしいといえる。極貧のなかで、体を崩しながらも強い意志で前に進んでいったのだ。また、この博物学においても、シートンが学んだ挿絵の技術はいかされたといえる。当時の写真技術では、動物を写すことはかなり難しかったからだ。
日本版の『シートン動物記』、そこに出ている絵はすべて日本の画家によって描かれたものである。シートンの挿絵は、本物の動物が感じられ、子供にとっては怖がると編集者はみたのだろう。そのため、日本版はより子供ウケする絵にしたようだ。
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