見出し画像

【小説】アレ 第20話



 ハンバーガー片手に、私たちは海に向かった。
 超穴場と聞いていたので私は胸を躍らせていた。
 彼はカーナビの指示通りに車を走らせている。

 段々と都会の景色が後ろに消えて、七曲りの山道を走る。
 急なカーブが幾つも続いて目が回った。

 アスファルトだった道が、途中から舗装されていない道になって、そこから林道を直進して深い森に入った。

「道、まちごうたんかな?」

 彼はトンネルの前で車を停めた。
 そのトンネルは昔の坑道みたいで、赤煉瓦には苔が覆われ、不気味な感じは一切なくて、吸い込まれそうな不思議な雰囲気が漂っていた。

「道、間違えたんと違う?」

「うん。そうかも知れん。あ~トイレ行きたいな!」

 短いトンネルで出口が奥に見えた。
 彼はヘッドライトを灯して、ぶつけないように、ゆっくりと車を進ませた。

 スマホを見ると、リングカーソルがくるくる回っていてGPS信号が検索中になっていた。
 トンネルを抜けると密林が広がっていて、少し不安になった。

 彼は無言でアクセルを踏み続けている。
 すると、ナビゲーションが再起動して、音声案内が始まった。
「この先、右方向です」

 通る道を間違えたと思う。視界が一瞬で開けた。

 さっきまで険しかった道が嘘のように、綺麗に舗装された道に変わった。

 それは海岸沿いの幹線道路で、走っている車は、私たちの車だけで他に車は一台もなかった。

 海面に反射する太陽が眩しくて、穏やかに波打つ海が広がっているのを見て、私は思わずはしゃいでしまった。彼に危ないとジェスチャーで注意された。
 日本海を横目に見ながら、車の窓を少し開けた。心地いい潮風が車内に吹き込んだ。

 道路は綺麗な海と山々に囲まれていて、遠くには数件の民家が点在する小さな集落が見えた。

 水際に何隻かの漁船が停泊していて、打ち寄せる潮の流れに小さく上下に揺れていた。地面には海藻の付いた漁網が適当に置いてあって、その周りをフナ虫が行ったり来たりしている。鳥肌が立った! 見た目と動きがゴキブリみたいで絶対に受け付けない。

 見渡すと、堤防の中心にテトラポットで作られた防波堤が一本だけ伸びていた。
 彼は防波堤の近くに車を停めた。

 地元の漁師さんが釣りをしていた。
 少しすると、出刃包丁を片手に持ったおじさんがやって来て、慣れた手付きで釣り上げた魚の頭を切り落とした。出刃包丁のおじさんは、

「ボラの卵巣を塩漬けにしたらカラスミになる」

 包丁を振り回して教えてくれた。それから、

「ボラは出世魚で大きく成長したのをトドと呼ぶんや」

 一人でベラベラとしゃべって、一人で大笑いしていた。

 防波堤に座って、山の緑や紅葉を眺めた。海は透き通っていて、夥しい稚魚が群がっている。長い堤防に沿った浜辺が連なり、沖合いの水平線上に大型船が停泊していて、模型みたいに見えた。寂れた海には潮の香りと微かな風に小波が揺れている。
 私たちは無言で、沈黙を破ったのは魚だった。
 チャンポンと音がした。またチャンポン! 魚が連続で跳び跳ねた。それだけのことだった。私たちは子供みたいに喜んだ。
 チャンポン! チャンポン、海が騒がしくなった。

 海面に指を差して二人で盛り上がった。都会から離れて日常を忘れることで疲れもどこかに飛んでいった。自然の中で癒されることは贅沢な時間だと感じた。
 ひと時だったけど、嫌な事とか全部消えて、また明日頑張ろうと思えた。

 夕日に照らされた海は、薄いピンク色に染まっていた。ロマンチックで素敵な時間だった。
 でも、彼が全部を台無しにした。彼は急に神妙な表現になって、私を見つめた。
 私も彼を見つめた。ドキドキしてたら、彼は私の目をじっと見て、オナラをした! それから真顔で夕焼けの空を見つめた。その横顔を見て、私は思わず噴き出した。すると彼は、
「汚いなぁー」って、
「最低!」
 私が言い返して、また二人で盛り上がった。

 漁師さんたちはいつの間にか、いなくなっていた。その辺に置いてあった釣り竿や籠なんかも全部なくなっていたから、海に転落したとかじゃなくて、私たちが気付かないうちに帰ったのだと思う。

「そろそろ帰ろうか」
「うん」

 私たちは車に足を向けた。歩き始めると、細かい雨が、ぽつりぽつり降ってきた。車に乗り、彼がエンジンをかけると大粒の雨が窓ガラスを叩いた。
「シートベルト大丈夫?」
 彼が気遣うように言った。
「うん。ありがとう」
 この些細なやり取りが、私たちが交わした最後の言葉になるとは、当時の私には想像も付かなかった。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?