インターネット懐古ではなかった

今まさに世間で少なからぬ関心を集めている芸能の話題に関して書かれた、なかなかに力作の長文ブログを読んで、わたしなどは大別するとまあ門外漢なので、そうかそんなもんかなどと思ったのです。
それを「怪文書」と評する声が上がっていて、うわ、これ怪文書かぁ。まあ、現在ネット上で気持ちのこもった長文を上げると、怪文書の称号をいただきがちではある。

要は、急にどうしたっていう話なんだろうか。前述の記事は、昔のネットではわりに見るタイプのテキストで、というか実際あの頃に盛んにテキストをあげていた人なのだろうと思う。特定されるのが嫌で迂回しすぎて何を言わんとしているのやらだけれども、ものすごく主体に「なにがしか」を感じる文章だった。急にとうとうと何かを語る知らないけど何者かでありそうな人が現れたら、怪文書だ! って思うかもしれない。
いや、実際あの人は「なにがしか」なのかもしれなくて、わたしがピントを外しているのかもしれないけれども。
あの頃っていうのは、ミュージックマシーンとかが存在した時代です。
あの頃のテキストサイトの管理人は、大なり小なり名前の付いた誰かだったように思う。

いまnoteに長文をあげるとしたら、できる限り「お前は誰だ」と引っかかる分を排除してかかる気がするね。見も知らない一介の誰かが世情を切るのも、まあ面白くはあるんだろうけれども、それが自分から発するものであってほしくはないよなぁ。それは綴る内容は「これが好きだ」「あれに腹立った」になるんだけれども、その主体が「みなさんご存じのわたくし」にはしない、という話で。
SNSでつながるっていうのは、いずれその一介の誰かを知ってる誰かにしていくんだろうけれども、noteをそんな風に使うつもりはないんだなあ。今、ラインを踏んだ気がするけれども。


ここに繋げることのないtwitterアカウントを持っているんですね、わたしは。永久クローズドアカウントなんですけれども。
そんで7月に入ってからの「twitterどうする」問題が急加速していて、ここ数日の動きを見るにつけ、目的ごとにSNSを使い分ける流れに行くのかなあなどと思うわけですが。
例えば日常アカウントとか応援アカウントみたいなやつが今日ローンチされたあれに吸われていくのかなぁなんて。
長年クローズドアカウントのみでSNSに生息していたわたしも、今日ローンチされたあれで新しいコミュニティとつながったりするのだろうか。しないか。インスタもやってるけど自発的には一切発信していない。おそらくそうした使い方を今後も続けるのでしょう。
情報を拾いにつながっていないアカウントを見に行くことはよくあったのだが、そういうムーブをジャンルごとに分散したSNSでやることになるのだろうか。
そういう追っかけをどのレベルまでやるかという判断を下さないといけなくなる、その流れだと。
ていうことを想像してうわぁ、ってなるぐらいに、twitterってたまたまいろんなジャンルの人が雑多にいたんだなぁ。

ていうことを考えていたら、twitterやる前のテキストサイトの世界を思い出したっていう流れの話です。


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