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織田信長 桶狭間までの苦労

織田信長は相当な苦労人。あまり注目されてないですが
信長の辛く苦しい下積み時代のお話です。

〇織田家は、信長の生まれる130年前に尾張に土着した一族

そもそも織田家は、尾張に土着していた一族ではなく、
越前(福井県)にある劔神社の神職であったとされています。
室町時代、越前の守護(軍事・警察・徴税を行う)は足利将軍家の有力一門である斯波家でした。
信長の先祖にあたる織田家は、この斯波家に仕えるようになります。
当時、守護は任地に赴かず、家臣に守護の役割を代行させることがしばしばありました(守護代)。
複数の国の守護を兼ねていた斯波家は、尾張の守護代として織田家を任命します。
こうして織田家は、1400年前後に越前から尾張に赴任した一族とされています。
そして、尾張の守護代織田家から信長の曽祖父の代に分家したのが織田弾正家。
信長の家になります。

〇信長以前の織田(弾正忠)家を取り巻く環境

尾張は上四郡、下四郡の合計八郡で構成されています。信長が生まれた
1530年代には守護:斯波家の勢力は衰え、家臣である守護代の織田家が勢力を伸ばしていました。
上四郡は守護代・織田伊勢守家、下四郡は守護代・織田家大和守が統治し
尾張は分割統治されている状況でした。

信長の生まれた家は、下四郡を統治する織田大和守家の家臣である
三奉行のうちの一つです(織田弾正忠家)。
当時の地方支配の体制の序列でみると以下ような位置づけであり
・守護ー守護代ー奉行(信長の生家)
良い家柄であったわけではないようです。

しかし織田弾正忠家は、信長の祖父である織田信定の代に、伊勢湾の港湾商業都市だった
津島を掌握。父である信秀はその経済力を背景に勢力を拡大させていきました。
実力をつけた織田弾正忠家は周囲に大きな影響力を持っていましたが、
主筋の織田家や一族からは危険視されていたため、争いと和解を繰り返していました。

〇信長誕生~家督相続

前述のような状況の中、織田信長は天文3年(1534年)5月、
織田弾正忠家当主織田信秀の三男として勝幡城で誕生します。幼名は吉法師。
父である信秀は、元服前の信長に那古屋城を与えて、林秀貞・平手政秀などの
重臣を守役としてつけます。三男であった信長ですが、母が信秀の正式な妻であったため
実質は長男の扱いを受けていたようです。

那古屋城で少年時代を過ごした信長は、奇抜な格好で領内を歩いたり
河原で相撲を楽しむ少年だったようで、その素行の悪さから「うつけ」と
と言われていたのは有名なお話です。

天文15年(1546年)に元服し、天文16年(1547年)には、
三河の吉良・大浜での戦を指揮し、初陣を果たしました(吉良大浜の戦い)。
また、天文17年(1548年)に信秀と美濃の斎藤道三の間に和睦が成立。
信長は斎藤道三の娘である濃姫を娶ることになります。

初陣を果たし嫁をとった信長。信秀の庇護のもと、戦国武将として
成長しようとする矢先、天文21年(1552年)3月、父である信秀が病死します。
葬儀の際、信長は袴を履かず、長柄の大刀と脇差を荒縄巻き、茶筅髷の状態で仏前に出て、
抹香をつかんで仏前に投げたとされています。
このような信長の態度に悲観し、織田信長の守役である平手政秀が、信長を諫めるために
腹を切る事件がおきました。

父:信秀についで、幼少期より守役として側にいた平手政秀も亡くなり
家督相続直後から信長の苦難は始まります。

〇尾張統一戦(下剋上の実践。親類縁者との闘い)

家督相続直後、尾張国内の信長を取り巻く環境はどうなっていたのでしょうか?
・守護代:上四郡 織田伊勢守家(織田弾正忠家の勢力拡大を危険視)
・守護代:下四郡 織田大和守家(織田弾正忠家の勢力拡大を危険視)
・弾正忠家:家臣から人気があり、弾正忠家の家督を狙う実弟の信行
妻の実家である斎藤家が同盟関係であるほか、上にも横にも「完全な味方」と
いえる勢力がなく、隙があれば織田弾正忠家の家督など吹き飛んでしまう危う
い状態にありました。信長は、尾張をほぼ統一する1559年まで、足掛け7年に
及び主家や一族と争う尾張国内統一戦を遂行することになります。

【赤塚の戦い(1552年4月)】

織田信秀の死去に伴い、織田弾正家に近い立場にいた鳴海城主山口教継と、その息子山口教吉が、
織田信長の力量に疑問を持って今川義元に寝返り、駿河勢を率いた今川方諸将を尾張国内に
誘導しました。山口教継は、子の山口教吉を鳴海城に残して、自らは笠寺城を修築し、
自らは中村城に立て籠もりました。
これに対し、織田信長は、天文21年(1552年)4月17日、兵800人を率いて那古野城を出陣し、
鳴海城北側の赤塚の地で乱戦となりましたが勝敗は決せず、元々は味方同士で顔見知りの間柄
だったため、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣す
ることにより、痛み分けに終わりました。
裏切者を処断できなかった織田信長は、元々うつけと言われていたこともあり、その評価は地
に落ちます。織田弾正忠家崩壊の危機です。
なお、山口親子の裏切りにより、織田信長は鳴海城を失い、同城は今川方の城になりますが、
その後、山口教継が、調略をもって大高城、沓掛城を乗っ取ったため、鳴海城には今川義元家
臣の岡部元信が城代として立て篭もり、それから程なく山口教吉は山口教継と共に駿河国へ呼
び出され、今川義元の命により父子ともども切腹を強いられ果てています。

【萱津の戦い(1552年8月)】

このころ、織田信長の主家にあたる清洲織田家の当主は織田信友だったのですが、
その実権は小守護代と言われた家老の坂井大膳に握られていました。
坂井大膳は、同輩の坂井甚介・河尻与一・織田三位と謀り、天文21年(1552年)8月15日、
織田信長方の松葉城と深田城を襲撃し、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次
(信秀の弟で信長の叔父)を人質として両城を奪取してしまいます。
この報せを聞いた織田信長は、翌8月16日早朝、那古野城を出陣すると、
織田信光(信長の叔父で信次の兄)と合流し、兵を織田信長率いる清洲城牽制軍と,
松葉城・深田城攻撃軍とに分けます。

そして、織田信長は、織田信光と共に清洲城牽制軍を指揮し、
庄内川を越して北上し清洲城に向かいます。
織田信長軍が萱津(海津)へ到着した際、清洲城からの迎撃軍と対峙し、
同日午前8時ごろから戦となったのですが、柴田勝家らの活躍により坂井甚介
を討ち取るなどしてこれを撃破します(萱津の戦い)。

その後、織田信長は、深田城・松葉城を攻略し、以降の清洲侵攻に備えて清洲
の田畑を薙ぎ払って那古野城に戻ります。

萱津の戦いに勝利して松葉城・深田城を奪還した織田信長は、それまでの
「うつけ」との評価から一変し、尾張国内において父・織田信秀に並ぶ戦巧者の名声を得ます。
そして、これらの評価を基に、織田信長は家中を取りまとめ、尾張国の統一
に邁進していくこととなるのです。

【村木砦の戦い(1554年1月)】

①斎藤道三との面談(1553年4月下旬)
天文22年(1553年)4月下旬、斎藤道三が、うつけの織田信長を驚かせて笑おうと考え、
織田信長を呼び出し、現在の愛知県一宮市内にある正徳寺で面談することとなりました。
斎藤道三は、正徳寺に向かう道にはずれの小家に隠れて、織田信長の行列を覗き見しました。

その際、織田信長は、斎藤道三の面前を通ったのですが、その際の出で立ちは、
茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻き立てて、湯帷子を袖脱ぎにし、金銀飾りの太刀
・脇差に2つとも長い柄を藁縄で巻き、太麻縄を腕輪にし、腰の周りには遠回し
のように火打ち袋・瓢箪を7つ8つほどぶらさげ、虎皮と豹皮を四色に染め分けた
半袴を履いた状態でした。

ところが、正徳寺で、斎藤道三と対面する際には、織田信長は、髪を折り曲げに
結い、褐色の長袴をはき、小刀をさした正装で現れたのです。

この織田信長出で立ちを見て、斎藤道三は、織田信長のうつけぶりは世を欺くた
めのものであったと肝をつぶし、自分の息子たちが、いずれ織田信長の軍門に下
るだろうと予想するに至ったそうです。

②村木砦の戦い(1554年1月)

織田信長が、尾張国統一戦を行っていた際、今川義元もまた尾張国への侵攻をしてきました。
今川軍が鴫原城を攻略し、尾張国智多郡村木に堅固な砦(村木砦)を築き、
さらなる侵攻準備をしていました。

そうしたところ、織田方であった寺本城が今川方に寝返りました。
寺本城が今川方に回ったことで、織田信長の居城・那古野城と、織田方の水野信元が
守る緒川城とが分断されることとなったため、織田信長としては、早々に村木砦を攻略し、
緒川城とのルートを復旧する必要に迫られました。
このとき、織田信長は、寺本城を避けるため、船で海を渡ってこれを迂回し、
村木砦に向かうこととしました。

もっとも、村木砦侵攻のため、織田信長が軍勢を率いて那古野城を留守にすると、
清洲城にいる清洲織田家の織田信友が那古野城に侵攻してくる可能性が考えられました。
そこで、織田信長は、美濃国の斎藤道三に援軍を求め、斎藤道三が安藤守就以下1000人の
兵を派遣しました。
織田信長は、那古野城で安藤守就の到着を待ち、天文23年(1554年)1月21日、安藤守就に
那古野城の守りを任せて出陣しました。
織田信長は、出陣後熱田に宿泊した翌日に船で知多半島に上陸した後東進し、緒川城に入城します。

そして、織田信長は、同年1月24日早朝、緒川城主・水野信元と共に出陣し、
村木砦を囲みます(村木砦は、北側・東側が水に守られているため、
西側に織田信光、南側に織田信長・水野信元が配置されます。)。
そして,織田方は、村木砦に攻撃をしかけます。
その後、織田方・今川方双方に多数の死者を出した後、同日夕方に村木砦が降伏し、
村木砦の戦いが終わります。
織田信長は、攻略した村木砦の事後処理を水野忠元に任せて村木砦を後にし、
その翌日に、帰路に裏切った寺本城の城下に火を放ち、那古野城に帰陣しています。

【大和守家】

①守護・斯波氏の滅亡(1554年7月)
天文23年(1554年)7月12日、守護代織田信友が、家老坂井大膳・河尻左馬丞
・織田三位と共に、守護・斯波義統の家臣の大部分が斯波義統の子の義銀に
従って城外に川漁に出かけた隙をついて、守護・斯波義統を暗殺しました。

そして、守護代織田信友が、清洲城を接収しました。
なお、斯波義統が織田信友に暗殺されたとの報を聞いた斯波義銀は、
川漁先からそのまま逃亡し、織田信長を頼って那古野城に落ち延びて
きましたため、織田信長はこれを保護しました。

②中市場の合戦(1554年7月18日)
織田信長は、自分の下に転がり込んできた斯波義銀の権威を最大限利用します。
織田信長は、斯波義銀を得たことにより、織田信長から見ると主君筋にあ
たる清洲織田家に対し、さらにその主君である尾張守護を暗殺した裏切り
者として討伐する理由を得たのです。

そこで、織田信長は、尾張国守護の子・斯波義銀の名で、
天文23年(1554年)7月18日、柴田勝家に清洲城攻略を命じます。
これに対し、清洲織田家の軍勢も、軍を出して山王口・安食村・
誓願寺で応戦したのですが敗れ、清洲織田家家老河尻左馬丞・
織田三位が討ち死にしています。
なお、用済みとなった斯波義銀は、後日、織田信長によって
尾張国から追放されています。
③清洲織田家滅亡と織田信長の清洲城接収(1555年4月)中市場の戦いで
家中の有力者を失った清洲織田家・織田信友は、坂井大膳の取次の下、
守山城の織田信光を調略し、共に織田信長に対峙しようと考えました。
もっとも、織田信光は、織田信長にすり寄り、逆に清洲城にて清洲織田
家・織田信友を切腹させ、清洲城を織田信長に引き渡しています。また
、坂井大膳は、今川氏を頼って逃亡しました。
これにより、織田信長の主家である守護代・清洲織田家は滅亡し、
以降、織田信長が清洲城に移って本拠とします。なお、織田信長が
離れた那古野城には入れ替わりに織田信光が入ったが不慮の事故に
よって織田信光が死亡したため、その後林秀貞が入城するも、やが
て廃城となっています。

【弟:信行をつぶす】

①織田信行との関係
織田信長のすぐ下の弟である織田信行(織田信勝とも)は、
父織田信秀の死後、末森城に入っています。なお、織田信行
には、織田弾正忠家の重臣である柴田勝家や佐久間大学らが
つけられており、その力は相当なものでした。
もっとも、織田信行は、父織田信秀の死後は、織田信長に協
力し、叔父である守山城主織田信光らとともに、織田信長に
協力し、織田弾正忠家の運営にあたっていました。

②稲生の戦い(1556年8月)
そんな中、弘治2年(1556年)4月、織田信長の岳父であった美
濃国の斎藤道三が、嫡男斎藤義龍との戦いにて敗れて死去し(長良川の戦い)、また残
る尾張国上4郡を治める守護代家である岩倉織田家が反織田信長の立場に立ちました。
この状況下で、織田信長では織田弾正忠家をまとめられないと考えた
宿老の林秀貞とその弟林美作守(通具)
、柴田勝家らが、織田信長を排除し、織田信行に家督を継がせようと画策をはじめます。
そして、織田信行自身も織田弾正忠家代々の名乗りである弾正忠を自称し、
織田信長の直轄領である
篠木三郷を押領して砦を構えるなどして、織田信長に反抗の意思を示しました。
信長公記では、織田信長と織田信行が不仲となったのは、この林兄弟の画策
によるものとされています。
この織田信行の動きに対して、織田信長も動きます。
同年8月22日、佐久間盛重に命じて名塚に砦を築かせたのです。

これに対し、織田信行方の柴田勝家らが、名塚砦に攻撃を仕掛けようと出
陣し、織田信長が清洲から軍を出してこれを迎え撃つという形で、同年
8月24日、両者が稲生原で相まみえます(稲生の戦い)。
戦いは、林美作守は討ち死に、柴田勝家は逃走という織田信長方勝利に終わります。
敗れた織田信行は、末森城に籠城し、追う織田信長は末森城に攻め寄せ城
下を焼き払って攻城戦に突入しようとしたのですが、ここで生母土田御前のとりな
しが入り、このときは、織田信行は、林秀貞・柴田勝家と共に放免されました。

③織田信行暗殺(1557年11月)
なお、織田信行は、後日、竜泉寺を城に改造し、尾張上四郡の岩倉織田家
の織田信安と共謀するなどし、再度謀反を企みます。
ところが、このときは、既に織田信長に与していた柴田勝家に織田信長が病
に臥しているから見舞いに行くべきであると騙され、弘治3年(1557年)11月2日、
織田信長の見舞いのために清洲城の北櫓・天主次の間を訪れたところ、織田信長
の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されました。
この織田信行の死により、織田弾正忠家が、織田信長の下に一本化されるに至りました。

【伊勢守家をつぶす】

織田信長は、織田弾正忠家を1つにまとめ、主家清洲織田家を滅ぼし、また尾張守護
となり得た斯波義銀を追放し、尾張国下4郡を概ね支配下におさめます。
そこで、織田信長は、尾張国統一のため、続いて残る上4郡の攻略を開始します。
尾張上4郡を支配する岩倉織田家(織田伊勢守家)の守護代は、織田信安であり、
長良川の戦いの際には斎藤義龍と手を組み織田信長を攻撃するなど、織田信長と
敵対関係にありました。
もっとも、このころは、岩倉織田家では、世継ぎ騒動で織田信安が嫡男織田信賢
に追放されるというお家騒動が起きている時期でした。
そこで、織田信長は、岩倉織田家の内紛を利用して尾張国上4郡を攻略しようと考えます。

そして、まずは、父織田信秀死後独立勢力化していた犬山城主織田信清に対し、
自分の姉・犬山殿を嫁がせ味方に組み入れます。
その上で、織田信長は、永禄元年(1558年)、2000人の兵を率いて清洲城を立ち、
織田信清の援軍と共に、浮野の地において3000人を率いる織田信賢軍と交戦しこれ
を破ります(浮野の戦い)。
そして、翌永禄2年(1559年)、織田信長は、再度軍勢を率いて織田信賢の本拠岩
倉城を包囲して攻撃を開始し、籠城する織田信賢を数か月かけて降伏させました。

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