「人生に生きる意味はない」という言葉について考える
はじめに
「人生に生きる意味はない」が自殺を選ばずにこの世に存在する理由になるというお話を聞いたことがある。人生を生きなければ死んでしまうと思うのだが、これは一種の逆説的な言葉なのかもしれない。つまり人生に生きる意味がないからこそ生き続けてみるという解釈だろうか。少し歯切れが悪い。というより、ズレている気がする。この世から距離を置いたところに自分を置いて辛い現実から目を逸らすということだろうか。
「生きる」とは
「人生に生きる意味はない」の背景には簡単に言えば毎日、真面目に神経を使って生きるということではないだろうか。「生きる」こと自体がしんどいことなので人生には何の意味もないと思うことで鎮静作用をもたらすことがこの言葉を精神的支柱にしている人々の考えだろうか。私にはわからないが一種の現実逃避のような側面があるのではないだろうか。
この言葉の効果について
この言葉は自分の可能性が絶望的な人間ほど受け入れやすいと思われる。それはこの言葉は自分の人生が分かりきったものしか吐かないからである。
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どういうことやねん
こういった言葉は社会で敗北に敗北を重ねた人間が辿りつく言葉だと考えられるからである。社会とは強者中心にできている。弱者中心ではない。この言葉は社会に居場所を持つことできない人たちに取ってひとつの居場所となり得る。
「人生に生きる意味はない」、この言葉によって自分は社会を主観的に見ているのでは高いところから見ているのだと、社会の強者達にマウントを取ることができる効果があるのではないか。
終わりに
こんな文章を深夜に書いている私は敗北者にほかならないだろう。だがこのようにしなければ私は厭世的な人になってしまう。このように書くことで私は自分に対して処方箋を与えているのだ。厭世的にはなりたくないものだ。
暗い水底に沈まむための悪足掻き
何を言っているのか。きっと数日したら恥ずかしく消すのだろう。
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