第二回自衛隊装備品

64式7.62mm小銃


出展:Wikipedia

今回は89式小銃の前任、64式7.62mm小銃を紹介いたします。

64式の前史

日本は戦後、GHQ下のもと1950年に自衛隊の前身である”警察予備隊”を発足させたのは有名な話ですが、その当時の装備品はアメリカ軍の装備品であるM1カービンが最初に供与され、1952年には増員にともない、M1ガーランドが、さらにそれでも足りないため、接収して改造した九九式短小銃が供与されましたが、ここで問題が発生します。
M1カービン、ガーランドは中古品で様々な故障は発生、九九式短小銃はM1の30-06弾を使用できるように改造されており、銃自体も軽量(12%ほど)というのも相まって反動はでかい、しかも制式型、戦時型、二式小銃の部品が入り混じって互換性は皆無、さらには安全装置をかけてても引き金を引くと弾が出る、撃つと銃身が割れるなど現場の声は悲惨なものでした。
そこで小銃開発中ではあるものの、豊和工業が九九式短小銃の状態を確認したところ、合格した個体の数は、遊底、撃針、安全子についてはゼロ、尾筒は2個、撃針止バネは37個で、持ち込まれた数は500挺、まともな九九式短小銃は一挺もないという結果に、当時の陸上幕僚監部は九九式短小銃の射撃禁止措置を取りました。

戦後初の国産小銃開発のスタート….?

このような状況を受けて、1957年に当時の防衛庁がM1と九九式の後継として国産の小銃開発を計画し、技術研究本部(技本)が新型小銃の研究に着手しました。
豊和工業は技本と連携を取り、新型小銃の開発を自社でスタートすることになり、そのような風潮をどこからか嗅ぎ付けた海外の銃器メーカーが自動小銃のパンフレットを送り付けてきたそうだが、どれも日本人の体格に合うような銃器ではないことから国内で設計、生産することになりました。
それに先立ち、陸上幕僚監部のオペレーションズ・リサーチ班は全国4,000ヶ所に及ぶ戦場適地を研究し、見通し線の距離を調査して必要な有効射程を算出、さらには太平洋戦争でアメリカ軍が使用した自動小銃に苦しめられた教訓に基づき、ソ連からSKS、アメリカからBAR、M14、M1カービン、ガーランド、さらには日中戦争時に使用されたZB26などを購入して参考にしました。
当時の防衛庁の制服組で開発に携わっていた津野 瀬光男や他の制服組の小銃のイメージは小型・軽量・低反動、低レートで連発時の命中精度が高いというものだった。
しかしながら現実はそんなものはなく、重い・でかい・反動が大きい、といもので、当時の自動小銃は口径が7mmを超えるものが多く、反動を抑えるために重くなってしまっていました。
これらの条件を比較的満たす銃として当時の明地力陸将がヨーロッパを視察した際、スペインのセトメ・ライフルがありました。
セトメの優れた点は7.62×51mm弾を弱装弾で発射の反動抑制して銃口の跳ね上がりを抑え、さらには大きな遊底で前進後退の時間を遅らせるところにあった。
1957年10月にはガス圧式を採用した「R1型」と遅延反動式の「R2型」の製作図が完成し、津野瀬が設計したR1型はセトメを参考にした引金機構を用い、遊底部を前部後部に分け、銃床は直床式を採用、セミ、フルの切り替えが可能であり、20発入りの箱型マガジンを採用していた。
R2型はピダーセン自動小銃(試製自動小銃・甲)の再現を夢見ていた岩下が設計を行い、会議で中止が決まっていた遅延反動式を採用、特殊カムを使用した単純な構造と板金を用いた引金機構を使用した。
しかし、そんな両試作銃の完成が1958年の3月に見込まれているにもかかわらず、肝心の弾薬を入手できていませんでした。

7.62mmNATO弾


出展:https://sniper.fandom.com/wiki/7.62x51mm_NATO

ここでいう7.62mmNATO弾とは7.62×51mm弾のことを指します。
当時、この弾薬を使用予定であったが正規ルートを通じての実包の現物支給や図面譲渡では間に合わないと判断され、陸幕武器課を通じて演習に来ていた米海兵隊からうb…ったわけではなく、M14用に用意してあった10発を譲り受け、弾薬メーカーの東洋精機(現在は三井精機工業)に渡り、弾薬の研究が進められ、当時の日本では初めての球状火薬(丸い形の火薬)のため第一段階の研究には間に合わないとして、これまで使われていた管状薬が使用されることとなった。
(尚、現在はパウダータイプの火薬が主流です)
1958年3月にR1型とR2型が予定通り完成し、性能試験が開始された…
が、ここで弾薬と銃の同時開発の弊害が出てきてしまいます。
試作銃の射撃に問題が発生しても、銃本体の問題なのか実包に問題があるのか分からない場面が発生し、改良しようにもどっちに問題があるのか不明のため改良ができないというのが球状薬ができるまで続き、そして完成したら再び問題が発生します。
それは発砲した際の圧力が高すぎて薬莢が薬室内に薬室に張り付くという焼き付き現象が発生し、抽筒機能(発砲した後に薬莢を薬室から排莢する機能)が得られなかったので重なる実験・試験の結果、銃身の肉厚に問題があることが判明し、銃身外径は34mmが最も良いことがわかった。
銃身外径を改めた結果、焼き付きは見られなくなり、飛躍的に抽筒機能が向上した。
(ちなみにこの時62式7.62mm機関銃、いわゆる言うこと機関銃も開発中)
しかし、この弾薬は米海兵隊から”譲り受けた”という非正規ルートからの入手のため陸幕武器課研究班が歴史をまとめる際に不明だったため問題視されたという履歴もある。

国産小銃開発中止の危機

R1型・R2型の試験の結果、R2型は最後まで焼き付けを排除することができなかった。
しかしながらR2型はある程度研究が進展を見せ(どの程度…?)二次試作に向けて仮の要求性能をまとめ、これに基づいて、津野瀬がR1型を母体にした改良型が1959年3月にR3型が完成R1,R2のいい点を合わせ、さらにはガス吹き込み式を採用したのがR3型になります。
さらには木製ストックを木製風のプラスチック化することも考慮して設計されていた。
全体的な重量は弾倉を外した状態で3.5kgと7.62mmを使用する銃の中では比較的軽い部類に入っています。
(例:G3:4.41kg M14:4.5kg L1A1:4.33kg)
しかし、1959年4月技術研究本部や富士学校研究部、武器学校などから多くの幹部が見学に訪れた展示射撃にてまさかのR3型は2,3発撃って銃の尾筒(レシーバー)下記の画像の部分を破損させて動作を停止させてしまいます。

出展:https://rikuzi-chousadan.com/

これにより、展示射撃は失敗に終わってしまい、すぐにR4型が作成されたが追い番のR4はシニバンと敬遠されたために名称がR5型に変更されたが、このさなか、米軍との共同作戦上の有利という理由でM14を5万丁調達するという計画が第二次防衛力整備計画に記載されていた模様。
R3型の問題点は発射速度(発射レート)が異常に早く、連発の命中が確保できない点やボルトよりスライドが小さく、連射速度の調整を困難にする原因となっていた。
しかし、R3型に改良するだけの容積が無かった、M14でも発射速度の速さや連射時の命中率の低さも確認されていたが、研究段階で目の前で二、三発撃って破損、射撃不能になる銃よりもともとある完成したM14を調達した方がいいと上層部は判断するのは妥当である。
これにより、豊和工業は大至急M14より優れた銃の開発する必要になった。
(補足:この時点でM14を購入する予算措置がついていた)

改良する余裕がない?なら設計変更だ!

これまでの設計から大幅に設計変更することを決めた津野瀬氏は0式12.7mmスポットライフルの図面を参考にピストン部はそのまま流用し、銃床を直銃床に変更、丸型の尾筒部を角型へ改め、さらには分解しやすくなるようにし、発射速度低下を狙い、緩速装置を組み込むスペースを設けた。
これらの機構はチェコ系と呼ばれるもので、SKSカービンやFN銃などでも参考とされたものです。
さらに7.62mmの反動の強さを曲銃床(下記画像赤枠)では連射時に銃口が跳ね上がっていってしまうため、直銃床を採用し発射反動を直接肩で受けるように変更。

出展:Wikipedia

そしてバイポッドとピストルグリップ(え?今?)を採用し、銃口制退器は簡素なものに、さらには銃剣が取り付けられるようにしました。
そして、銃身長は450mmに、異常に早かった発射レートも毎分400発に抑え、撃鉄の撃針打撃時期を遅らせる緩速装置が開発された。
1960年8月より開発が始められ、同年10月に遅延反動式の「R6型A」が完成し、津野瀬は防衛庁を退官し豊和工業へ移っていた。
この間に防衛庁の目黒研究所にて7.62mmの大規模な実験を進めていた。
それは減装弾(火薬の量を減らした弾薬)のテストで、95、90、80、45%の四種類の減装弾がテストされ、結果として90%前後が最適と判断された。
ここでようやく防衛庁から提示性能が固まりルオートの発射速度を毎分400発以下に抑え、300mにおける命中精度をBAR相当にすること、銃全長は100cm以下、重量は4kg以下に抑えることとされ、次のR6型Aはこれに基づき、発展、改良されることとなった。
九月にはR6B型が完成しR6型BはB-1、B-2、B-3(後述)と3種類のバリエーションが試作され、重量は4.4kgとなり緩速装置にも改良が加えられた。
R6型B-2は1962年3月にB-1を改修したもので、再度、緩速装置に改良が施されたが撃針が僅かな発射弾数で折れる、緩速装置が複雑すぎて分解が困難という問題も確認された。
1962年にはM14とこのB-2型の射撃試験ではB-2型の方が優れているという結果になった。
1962年7月にはB-2に改良を加え「官I型」とも呼ばれる「R6型B-3」が同年10月には「R6型D」が開発されるR6D型は防衛庁の発展技術テスト用に開発されたため、「官II型」(または技研案)とも呼ばれ、信頼性向上のため緩速装置が大型化し、重量は4.7kgへと増加した。
しかし、ここでよくないニュースが飛びこみます。
富士学校で行われていた技術試験でまさかのR6B型の故障が頻発しているというのだった。
雨が降ると連発が止まるという指摘に対し、水抜き穴を空けても結果は変わらなかった。
この結果を受けて原因を調査したところ、緩速装置が主な原因で複雑な機構と部品点数の多さによる整備性の低さが原因であり、津野瀬氏は故障も多く華奢な銃は役に立たないと岩下氏に言ったが岩下氏は命中精度を確保するためには緩速装置が必須と二人で言い争っていたが、M14の導入が現実味を帯びてきたため、二人には焦りが見えていた。
しかし、二か月後に岩下氏は新たな図面を完成させ、津野瀬氏に提示。
発射レートは毎分500発と高くなってしまうものの、その図面には飛躍的に簡素化された緩速装置と直動式の太い撃針が銃身軸芯上を横断し、それを逆鈎が大きな爪で抱きとめ、銃床中心に緩衝バネが備え付けられたR6型Kと命名される前の図面があった。
さらに、詳細な部品の図面を徹夜で製図し富士学校での技術試験が終了する前日の夜に完成した。
この改良により、重量低減と信頼性向上を果たし、さらには命中率の高さがM14とは格段に違うことから富士学校側は自信を持ち、さらに改良を重ね、官Ⅱ型改(R6E型)が完成する。
しかし、ここで黙ってないのが我らが米t….ゲフンゲフン、アメリカで
”新型小銃には攻撃面がない”(どの口が言うんじゃボケが)と水を差され、防衛庁がM14を単価五万で買おうという計画もあったとされていたが、これはアメリカがベトナム戦争での教訓により、M16の配備が進められていくことによりM14が大量に余ることから、日本に押し付けようというものだった。

戦後初の国産小銃制定へ

そんなアメリカからの横やりがあったが、1963年3月、陸幕武器課は新小銃の試作と制式制定に必要な予算の取得措置として大蔵省に対しての展示射撃を行い、良好な結果を受け、陸幕はM14の購入費として計上していた予算をそのまま新小銃の調達に振り分けることにした。
しかし、重量が要求よりも重くなってしまったため上記の展示射撃に並行して軽量化が進められることとなった。
改良を重ねていき、ついには4.27kgとなったR6型E改が完成した。
さらに細部に改良を施していき、ついには同年5月より各種試験が行われ、12月より官III型による最終的な実用試験が進められ、翌年の8月までに寒地試験、装備補給試験、空挺試験、耐久試験などが実施された。
そしてこれらの試験をクリアし、1964年10月6日に64式7.62mm小銃として正式に採用された。

64式7.62mm小銃について

銃身と銃床が一直線になる直銃床を採用し、作動方式はガス圧利用式ボルト後端をレシーバー下部の窪みにはめ込むことでボルトを閉鎖するティルトボルト式を採用、日本人の体格に合わせたデザイン、防御戦闘を主眼においており、重量増加よりも高火力を正確に撃ち込む射撃精度、連続射撃の際の弾幕小径化。
回転速度を下げて連射時の銃口の跳ね上がりを抑えるため、コイルばねと棒状の撃鉄を納めた撃鉄筒が床尾内に入り込む設計となっており、折り畳みストックの制作は不可能となっている。
銃口部の消炎制退器(サプレッサーとは違う)は射撃時の発砲炎を水平方向に逃がすことにより、射撃位置の秘匿をするとともに射撃の反動を30%ほど低減するというものだが、上と左右だけ穴が開いており下は開いていない。
これは、下向きに穴をあけると全方向に発砲したときのガスが均等に排出されるので軸ができて命中率が高まるが、しかしそうなると地面の砂を舞い上げて射撃位置が特定されかねないので、このような三方向だけとなっている。
一方で、制退器の締め付け具合は命中に影響を与え、特に分解組付を行った際に狂いが生じたとされる。
ちなみに64式の銃身はクロムメッキを施して耐久力と防錆能力の向上しているため、まさかの89式よりも寿命が長いという事態が発生し、89式が寿命を迎えて用廃になっても64式はまだ現役で撃てるという。
元々ついているアイアンサイトは照星は微調整不可能な固定式で照門は上下左右に微調節可能なダイヤル式となっている。
ダイヤルは画像の丸で囲ってある場所で、右側面についたダイヤルで左右、照門下のダイヤルで上下に移動する。

出展:https://rikuzi-chousadan.com/

しかしこの照門、実は固定されておらず、伏せ撃ちの際、鉄帽のひさし部分が照門に干渉したり、射撃時に倒れるというもので現場の隊員には悩みの種でした。
しかし、改良されていないというわけではなく、生産後期では改良されて倒れにくくなってはいるものの、完全に防ぐことはできなかったといいます。
さらには部品点数が150点とかなり多く、整備性に難があり、ハンドガードには金属製の上下分割式を採用したが、専用工具を用いないと脱着ができないため床尾板の整備用具が入っている。
しかし下部被筒の前部は鋼板で補強されているが、本体は軽合金でできているため、変形すると”戻りません”
そのため、扱いが雑な隊員がいるとその部品が脱落しやすくなってしまうので、管理にうるさい自衛隊はビニテで補強するという対策を講じざる負えませんでした。
内部機構は少し変わった特徴があり独自の緩速機構による低発射速度を採用し、引き金を引いてから撃鉄が作動し、撃鉄に叩かれた撃針が弾の雷管を突き発射するまでの時間(ロックタイム)が他の軍用銃と比較して長い、スライドを後座させるためのガス導入量を調整する「規整子」(レギュレーター)を操作することで、常装弾や小銃擲弾も発射可能。
ちなみにロックタイムが長いと慣れていない新人隊員は弾が発射される前に照準がずれて外してしまう、なんていうことがあり、扱いなれている隊員の命中精度は驚異的ともいわれ、とある人からは”射撃競技会では64式のスコアを89式が上回ることができていない”とも言われているくらい精度を誇っています。
64式は潤滑油切れや汚れによって(どんな銃にも言えること)遊底の後退速度が不安定になると、装弾不良、排莢不良を起こす場合がある。
そして、これらの現象は2024年になっても見受けられる。
とある方の動画では何回もマガジンを差しなおしてスライドを引いてというのを繰り返ししているのが見受けられ、早急に20式の配備をしてほしいと私は感じた。
セレクターはア、タ、レの順番で切り替えレバーを”引っ張って回す”という非常にユニークなデザインです。
しかし、これは即応性に欠けるので、即座に発砲するにはセレクターをア、タの間に半分だけ浮かした状態でキープし、発砲時に回すという対策もされていたそう。
重量は4.3kgで銃の前側が一番重く、これにより発砲時の反動を低減している。
また、精度がいいのでこのように64式用狙撃眼鏡をつけて狙撃銃として扱われることもあった。
(これもネガティブなことが書かれてたので省略)

出展:Wikipedia

その他にも銃剣や暗視装置、擲弾発射などができる。
生産は23万丁以上生産されており、今でも各駐屯地や分屯地では活躍している姿が見られる。
一番真新しい動画では航空自衛隊の奈良基地でめっためたに撃ちまくってる姿が見れるのでYoutubeで調べてみてください。

今回は64式小銃について書いてみました
長々と呼んでいただき感謝いたします!今後もよろしくお願いします!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?