草刈デビュー
55歳にして新たにできるようになったこと。
それは草刈機の操作である。しかも2台。
公園や河川敷で、丸い円盤型の草刈機を両手で持って、左右に動かしながら草を刈る姿を目にしたことはないだろうか。刈り払い機ともいうらしい。1台目がこれである。
2台目は、ガソリンで動く自走型草刈機である。自走型と言っても、全自動で運転してくれるわけではなく、イメージとしてはマニュアル車。まずチョークを引っ張ってエンジンを動かし、左手でクラッチ、右手でアクセルを握り、両手で進む方向を定めて動かしていく感じである。当然動かすのはコンクリートの上ではなく、柔らかな土の上なので、やはり力がいる。自分の人生の中でまさか草刈機を操作する日がくるとは、正直思っていなかった。
私の両親は、農村地帯に住んでいる。88歳の父と85歳の母の二人暮らし。父は数年前に脳梗塞で倒れ、後遺症として左半身に麻痺が残ったため車椅子の生活となった。着替えやトイレは母が介助している。週2回デイケアに通い、そのほかに週2回、理学療法士による訪問リハビリを受けている。
戦前は大地主だったという我が家は、戦後の農地改革によってあっという間に没落したらしい。祖父は東京で美術を学ぶボンボンだったが、兄が結核で亡くなり、急遽呼び寄せられた。祖母も近隣の地主から嫁いできたと聞く。そんな二人が戦後の急激な変化の中、生活して行くのはさぞ大変だったろう。祖父は土地を切り売りしつつ、残った土地を畑にしてりんごなどを植えて生計の足しにしていたらしい。祖母が大きなカゴを背負い、リンゴを入れて売り歩いていたのだと、葬式の時に叔母に聞いた。
私の知っている祖父は、いつも油絵を描いていた。東郷青児の模写だったり、近隣の方の肖像画であったり、さまざまであったが、祖父の部屋はいつも油絵具の匂いがしていた。畑にいた姿はあまり記憶がない。畑のほうは柿の木やリンゴの木、あとは家で食べる分の野菜の畝がいくつか。主に祖母が世話をしていたのだったろうか。
祖父母の他界後、退職した父が畑にさくらんぼを植えた。さくらんぼの雨除けハウスが二棟、ドーンと立っているのを見た時はもはや趣味の域を超えているのでは?とさすがにびっくりした。さくらんぼのほかに、キウイやブルーベリー、栗の木、葡萄など、300坪ほどある畑には老後の両親の生活を彩る果物と家庭用の野菜が植えられるようになった。
コロナ禍で緊急事態宣言が出てまもなく、父が脳梗塞で倒れた。リハビリも含めて半年の入院生活中に、さくらんぼのハウスを撤去し、木を処分してもらった。何もないがらんとした農地。家庭菜園だけは見よう見まねで私が作った。これまでの両親の生活の楽しみである。
全てなくしてしまう訳にはいかなかった。
こうして、両親の生活をサポートする日々が始まった。両親と私の家はおよそ80キロ離れている。平地の直線道路なら良かったが、途中に山脈がある。山越えの80キロである。高速道路を使っておよそ1時間30分。父が入院している間は毎週末通った。退院後は二週間に一回にした。夫と二人、仕事もしている中ではこれがギリギリだった。私が母と買い物に行く間、夫が畑の草刈をする。そんな生活を4年続けた。
両親も私たちも年を取る。しだいに負担感が増えていく。このままではダメだ、そう思ったことも、この春に退職を決めた理由である。
そうして私は今、週に一度実家に通い、草刈機を動かしている。
使い方は夫に習った。
梅雨の晴れ間に初めて一人で自走式の草刈機を動かした。
草刈機が大きな音を立てながら畑の中を進んでいく。
雨が降った後の土の香とむせ返りそうなほどの草の匂い。
傷ついた草は独特の匂いを出すのだという。
その青臭さの中、草刈機を動かしていると、前方に大きなカラスが一羽、降り立った。草を刈った後の畑には隠れる場所を失くした蛙や虫がいるのだろう。何か啄んでいる。5メートルほどの距離だろうか。
危ないから、どこかに飛んでいって、と心の中で願うと、スッと避けるように3メートルほど離れたところからこっちを見ている。
気づいたらもう一羽、少し離れたところでやはり何かを啄んでいた。
途中、勢い余ってブルーベリーの太い幹を折った。熟す前の実がスズナリになっていたのに。まあこれも鳥たちが食べてくれるだろうと、畑の隅に立てかけておく。こうして、二羽のカラスに見守られながら、私は草刈デビューを果たしたのだった。
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