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まち研究5 ふくしま幽霊史

今からおよそ470年前、須賀川の城下町は異様な火の幻影に包まれた。
それは、城下のはずれの妙見山一帯のあちこちの丘に、数郡の火焔があがり、天を焦がさんばかりに燃え輝き、みるまに火焔は青色を帯び、細長く尾を引き、人魂の大集団となって夜空を自由に乱舞するのだった。こうした不気味な現象が毎夜のように続いたのです。
城下の人々はその怪奇なできごとに、不安に怖れおののくばかりでした。
‥町の若者たちの主唱で、城下町須賀川の復興対策が協議されました。討論の結果、天正の戦で味方の反乱者のために憤死した数多くの武士のしわざではないかということになりました。
そこで、若者たちは、全山に松明を炊き、「怪火鎮滅」、「亡霊退散」を祈祷することになりました。その日は、10月10日の夜でした。
若者たちの「亡霊退散」、「怪奇鎮滅」の祈祷で全山に燃やした松明のためか、その後、妙見山一帯の怪火は絶えました。
‥誰ということなく、この行事を続けることになりました。今では「たいまつあかし」として全国的にも数多い火祭りとして有名となり、全国的に「怪祭火まつり」として須賀川市の観光行事となっています。

・真相
(『須賀川落城物語から』ときは大正17年。秋10月、伊藤政宗は二本松城、会津黒川城を滅し、その余勢をかって須賀川城へと押し寄せた。政宗と大軍の前には須賀川城の運命は、まさに風前の灯火だった。当時の城主二階堂盛義は、すでに亡くなっており、その子盛隆が、嗣いでいたために、盛義の後室大乗院が二階堂家の主となっていた。大乗院は女ながらも気性が強く、武将を統治していた。400年にわたる二階堂の存亡を秘めながら、大乗院は群臣を東の丘に集めました。家臣はもとより、百姓、町民までが、武器と松明を手に、次々と集まりました。10月10日、初冬の陽は寒々と照らし、枯葉まく一陣の風とともに、政宗の大軍は須賀川城にせめました。大軍を迎えた須賀川勢は東の丘を戦場の舞台として死闘が続きました。ところが、重臣の一人である守屋筑後の裏切りで城下は火の海と化し、須賀川勢は混乱し多数の家臣は城を枕に討死した。民家は兵火に焼かれ、さしも豪勢を誇った須賀川の城下は一挙にして見る影もない廃墟と化したのだった。この戦で須賀川勢は力戦も空しく、夕刻に落城しました。馬上500騎、足軽2000人が戦死し、政宗の母大乗院は捕えられ、あちこちに転々とし、後に悲しい思い出の地に戻り、討ち死にした部下の冥福を祈り、菩提樹の長禄寺で空しく果てたと伝えています。その後まもなくして須賀川の怪奇事件はおこりました。)


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