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中村哲著書 天、共に在りから2

第二部 命の水を求めて
2000年春、中央アジア全体が未曾有の干魃にさらされた。5月になってWHOが注意を喚起した内容は、鬼気迫るものがあった。アフガニスタンの被害が最も激烈で、人口の半分以上、約1200万人が被災、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあり、国連機関が警鐘を鳴らした。食料生産が半分以下に落ち込み、農地の砂漠化が進んだ。家畜の9割が死滅し、農民は続々と村を捨て流民化した。これがアフガン戦争に次ぐ第二次大量難民発生で、その数、100万人を下らないと言われる。これに加えて、診療所をはさんで反タリバン勢力とタリバン軍が対峙、一進一退の攻防が続いていた。

この状態の中で、死にかけた幼児を抱いた若い母親が診療所にくる姿が目立って増えた。干魃の犠牲者の多くは、幼児であった。「餓死」とは、空腹で死ぬのでない。食べ物不足で栄養失調になり、抵抗力が落ちる。そこに汚染水を口にして下痢症などの腸管感染症にかかり、簡単に落命するのである。若い母親が死にかけたわが子を胸に抱き、時には何日もかけて歩き、診療所を目指した。生きて辿り着いても、外来で列をなして待つ間に我が子が胸の中で死亡、途方にくれる母親の姿は珍しくなかった。

こうして、2000年7月、ダラエヌール診療所で悲鳴を上げていたアフガン人医師の建言を容れ、「もう病気治療どころではない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の獲得に乗り出した。実際、病気のほとんどが、十分な食糧、清潔な飲料水さえあれば、防げるものだったからである。残った村人たちを集め、深い井戸を掘る作業が始められた。

ーーーー現地の地層は、20メートルも掘らぬうち、巨礰の層に突き当たる。子牛くらいの大きさの石が重なると、とてもツルハシでは無理である。苦労に苦労を重ねて、結局、削岩機で巨石に穴をあけて、爆薬をつめて粉砕する方法が最も奏功した。我々は、ロケット砲や地雷の不発弾を見つけては、火薬を掻き出し平和利用した。2000年10月までに274ヶ所、翌2001年9月までには660ヶ所かとなり、その9割以上で水を出した。最終的には、2006年までに約1600ヶ所に達し、数十ヶ村の人々が離村を避け得るという大きな仕事に発展した。

(詳しい内容は著書参照)


第三部 緑の大地をつくる
しかし干魃は少しも収まらなかった。特に最も激しい干魃にあったのは、スピンガル・ケシュマンドの両山麓地帯である。すなわち、巨大な貯水槽を成していた万年雪が年々減少し、夏の雪線は4000m近くとなって枯渇寸前であった。これに少雨が加わると、水欠乏は極限に達した。

ーーー農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なしとう確信を深めた私は、農業復興に全力をつくす方針を固めた。その計画の骨子が以下の通りである。

1.試験農場 (乾燥に強い作付研究)
2.飲料水源事業
3.灌漑用水事業(①枯れ川になった地域の溜め池の建設。②大河川からの取水)
 2002年3月、以上を緑の大地計画として、準備を開始したのである。

(詳しい内容は著書参照)



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