フロイドと不確定因果順序/タロットカード


昭和の50年代というのは
戦中派が活躍した最後の時代だったと思う。

このブログで鈴木大拙のことにふれたが
禅は戦後、不評だったのだ。
クリシュナムルティと鈴木大拙とは恐らく、そりが合わなかったのだと思うが。



ベサントはイエス・キリストをやや
美少年化していたようなきらいがある。


聖書を読むと、イエス様はけっこうおっちょこちょいなのだが…。
新約聖書はユーモア満載なのだ。

『復活』した時、仰天した弟子たちの前で、焼き魚を食っていたという。



大拙はその名前をとってみても

大(おおいに)拙(つたなし)

と、なっている。
禅ではつたなきを以て、成る…というかんがえがある。
これが、無に通じる。



このニュアンスが、英国にはないのだろう。
空をemptyと言っても、ニュアンスが異なる。

今はスピリチュアルメソッドとして、
メディテーションが必須となってる。
瞑想というのは思考のプロセスの横断のような現象。
スピリチュアルというのは、
解釈の裾野が広すぎる。



日本ではシュタイナーの翻訳やコリン・ウィルソンの翻訳がされていたが、スピリチュアルという言葉が今ひとつはっきりわからなかった。


むしろ、河合隼雄のユング心理学や鈴木晶の『フロイド』が非常に分かりやすかった。このフロイドから、ポスト・フロイドとして、ジャック・ラカンの研究書が出ていた。『意味と無意識』






キホン、量子力学…量子の『波』と『粒』の2つのあり方の比喩は、
むかし、ヒッポファミリークラブという知的探求本が最初に分かりやすく説明したのが始まりだ。






この励起のプロセスで、ファントム遺伝子論や不確定因果順序、ブラックホールとアカシックレコード…こういった関連性が出てくる。
前世があるのかはまだわかっていない。
霊能者はアカシックのデータに惑わされている可能性が高い。
時系列で前世の霊視実験をする。
すると、その時々で結果は異なる。
となると、時系列で『分岐』が起こっている可能性がある。
よって、前世は『分岐』によって、どんどん異なってくる。
つまり、前世は存在しないわけで、
その時々の服装と同じ、きがえられるのだ。




三島由紀夫の『美しい星』というSF小説があるが…恐らくは三島由紀夫自身は、
次元移動やパラレルを経験したことがあるのだろう。
わい自身、タイムリープの光景は目にしている。
それがじつは、三島の『美しい星』のシークエンスそのものなのだ。


この小説のラストは…ある宇宙人一家が突然、日本から消える。
主人公の青年だけが彼らのことを知っている。
こう締めくくってあった。
安部公房のSF小説の中には驚くべきことに『ミンコフスキー時空』という言葉がでている。
タイムリープやパラレルは、白日夢のような感覚である。

さて、

夏目漱石はこの『禅』を『吾輩は猫である』の後半で痛烈に皮肉っている。
彼は人間の精神性が奇跡をうむことは恐らくはないだろう…と考えていたフシがある。

この考察が後に『三四郎』の冒頭で
日露戦争の戦勝に浮かれている群衆を汽車の中から眺めていた学者が…

『いずれこの国は滅びるね…』

と、痛烈な言葉を口にするシークエンスとつながる。

戦争を経験した世代は、この文脈の中で、『禅』には頼らず具体的であれ、
こう考えた。



…日本ではサザエさん…がまだ、四コマ漫画で連載されていた時代に司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を連載し始めた。

神保町からトラック1杯分の幕末の資料を司馬遼太郎は買い漁った。
ここからが至難の業で、
曰く…すべてに目を通していくわけです…

東大阪の近畿大学近くの司馬遼太郎記念館を音ずれたことごある人ならある程度は知っていると思うが、
膨大な書籍が遺っている。
プラトン全集もあったが…目を通した形跡はない。
反対に中国の古典はボロボロになるくらいに読み込んであった。
あと経済学。
鈴木大拙の兼ね合いで書いておくと、
司馬遼太郎は西本願寺にあった控室(記者、デスク?)ほぼ、毎日、本を読んでいた。

そして、晩になったらタクシーで自宅に帰る。
この繰り返し。
その当時の日本の歴史小説は吉川英治。
今、話題にあがっている『剣山』にアークがあるという伝説は…吉川英治の『鳴門秘帖』に由来している。
こういった伝奇…の類を作家の場合、切り捨てていかねばならない。
『竜馬がゆく』は最初、東海道中膝栗毛のようにはじまり、途中、大胆にも…ジャーナリズムを織り込んでいく…独創的なコラージュ手法を取り入れている。
これ、じつは原稿用紙の中にクレヨンとか色鉛筆を使って書きこんであるわけである。

展示してある原稿は綺麗なものがあるだけだが…実際には、色鮮やかな…子どもの自由帳のような原稿がある。
テキスタイルみたいな…
この中に物語を織り込んでいく。

この時代小説は(正確ではないという話はあれど)昭和30年代に挑んだ、資料の物量戦だと考える。



『翔ぶが如く』では昭和初期の鹿児島の西郷研究を漁るように調べてある。




多分、『翔ぶが如く』は小説の筋が今ひとつわかりにくいと思うが。

じつはこの作品は維新後…大村益次郎が京都の三条の旅籠で遭難、後に大阪で亡くなった直後から、始まっているのだ。

西郷は大村が亡くなった翌年の3月に謎の病を発病している。
ここから、長州閥と大久保利通の水面下での盟約…、
さらには、江藤新平の『法』の概念。
そしてそれを彼の死後にやっと理解できた…大久保利通。
こう構成していくと、面白くなる。
西南戦争は明治十年の2月中旬から8月まで続いた。
この間に、海援隊の陸奥宗光は土佐藩士とともにクーデターを画策している。
大久保利通は翌年、紀尾井坂で暗殺されるが、その日まで亡くなった西郷の悪夢な悩まされ続けるのだ。
『翔ぶが如く』をディテールを読み込んで再編してみると、呪怨…がテーマになったような作品。

坂口安吾や太宰治は日本の歴史小説に…資料研究の重要性を暗に感じていた…、

これが彼らの森鴎外に対するリスペクトとなる。
戦後、坂口安吾が松本清張を発掘したのもその過程である。



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