『青い麦』腐女子コレット/オードリー・ヘップバーン


なんか、テレビがないから
ボケっとしてる。



今、本が売れないらしく、
ブックオフでコレットの
『青い麦』を百円で買ってきて、読んでいます。 
堀口大学の翻訳。
古い。

レイモンド・チャンドラーを村上春樹が翻訳しているこの時代に…。


ガブリエル・コレット
作家…女流作家というか、腐女子に近い。




この人こそ、ハリウッドのイコン、
オードリー・ヘップバーンを世に送り出した、そのものズバリの女流作家である。

ミュージカル『キキ』の作者。

同時に女流作家・というか腐女子だった。
彼女は、イタリアでのパーティーに
ヘムストラ男爵の孫娘、ヘップバーンと彼女の母、サラを呼んだ。
というか、当時、独学で演劇の勉強をしていたヘップバーンは『およばれ』した。

ヘプバーンは戦後、ロンドンでくすぶり続けていた。
1944年のイギリス軍、アメリカ軍とドイツ軍の戦火の中、生存したが
すでに、バレエの道には戻れなかった。

同時に戦後、バレエはモダンバレエを主軸にして再興しようとしていた矢先、ファンがつかなくなっていた。


ストラヴィンスキーやラヴェルより、
『パリのアメリカ人』
さらにはデューク・エリントンの『A列車で行こう』である。



で、当時、流行していたブロマイドのモデルになる。
そして、ローレンス・オリヴィエの演技を…オードリーは研究する。

演劇を目指すのならば
まずは、シェイクスピアである。

オードリーは、恐ろしく生真面目であった。当時、ナチスのプロパガンダ映画しか観たことがなかった彼女である


彼女にとって、自由とは
イギリス煙草とガソリンのニオイだった。
1944年6月のノルマンディー上陸作戦の後に、オランダは解放される。
その時の記憶だという
戦時下で彼女は最初で最後のバレエの舞台を行っていた。
いはゆる、反ナチスのパルチザンへの寄付のために、小さな公演でペール・ギュントを踊っている。

この演目をみて、意外なことがわかる

グリークのこの作品は、いはゆる反ユダヤ主義作風と言はれており、恐らくは
パルチザンの偽装のために考えられたのだろう。

晩年、オードリー・ヘップバーンは、
ユニセフの活動で世界中を回った。
じつはこの折、彼女はヴェトナムで意外な人物と会見を行っている。


ハノイの
ボー・グェン・ザップ将軍


ここに戦争を経験した人間の凄みが感じられる。


この会談はアメリカのメディアでは、一切流されなかった。
80年代、ヴェトナム戦争といえば
まだ、タブーに近い。
ましてや、ボー・グェン・ザップ将軍となれば、アメリカを敗北させた人物である。



さて彼女は


『ハムレット』をロンドンのピカデリー劇場で朝から晩まで観て、暗い映画館の中、ノートをとっていたという。


モンローはもともと、作家志望とも考えられる。実は確かな記録、作品は公表されてないが、台本を書くぐらいは朝飯前だったろう。
ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』では、彼女が台本を読まずに、現場で自分のアイデアをどんどん、撮影に無断で入れていったというエピソードごある。





モンローは戦時中に軍需工場でポスターのモデルになった。
これがきっかけとなって、ポルノグラフィーを撮影、女優のチャンスを掴んだ。
こういった曰く付きのデビューだった。



後に、モンローは『ティファニーで朝食を』の主演を急遽取りやめ、代役にオードリーが立つことになる。
カポーティーは彼女の『百万長者と結婚する方法』からティファニーのアイデアを出していた。



さて、話はこれっととオードリーの邂逅について



コレットは彼女を会場の中でオードリーを目にすると、『貴女がキキよ!』とコレットが大声を上げたという。

つまり、コレットの頭の中にあった主人公と瓜二つだったという。
ミュージカル『キキ』の主演をあろうことか、
作者自身がオードリーな依頼するという前代未聞の展開がはじまる。

この時、ヘプバーンは引退を決意していたのだが、
つまり、あまりに真面目すぎて役が取れなかった。
ここで、コレットのパーティーでの出来事は、奇しくもニューヨーク経由でハリウッドに伝わる。
ポーレット・ゴダードがまず、オードリーの存在を知った。


ハリウッドは戦後のマーシャル・プランの兼ね合いで、イタリアの通貨であげた興行収益の回収ができなかった。
そのため、その収益を現地ロケで相殺する企画を練っていた。

規模としてはカルト映画(低予算)の規模である。
ここでグレゴリー・ペックを主演に『ローマの休日』のシナリオを作成。
しかし、主演女優を誰にするか難航を極めていた。


この矢先に、ゴダードがオードリーの話をワイラーに持っていく。
ここから、スクリーンテストの依頼を彼女に打診するが、

『演技は勉強したことがありません』

と、断りの連絡がハリウッドに届く。





彼女の『ローマの休日』が1952年だったかな?この年、アメリカは非米活動報告委員会を招集した。

これが、レッドパージである。
このリストの中に、昨今話題になった、

ダグラス・トランボという脚本家の名前がある。


『ローマの休日』の企画は、
このトランボとハリウッドの名監督
ウィリアム・ワイラーの二人で進められていた。


トランボは後に、『スパルタカス』という映画の脚本も手掛けている。
これはカーク・ダグラス主演の映画。
同時に、知る人ぞ知る


『2001年宇宙の旅』


キューブリック初のハリウッド作品である。

この50年代
いはゆるアメリカが世界を制覇した時代である。
この後に、アメリカはニューシネマの時代へ入る。

ネイティブ・アメリカンたちをテーマにした『小さな巨人』『カッコーの巣の上で』。


『地獄の黙示録』などのコッポラの作品は、このニューシネマの最後の時代の作品になる。


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