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平等とか迷惑とか、つらつら考えたこと

以前、某市議会議員のInstagramで、一人の市民からのコメントを見た。
「母子家庭で子どもを5人育てている。(行政からの)手当はもらっていない。理由は、ある人にそれ(手当をもらうこと)を咎められたからだ」
正確ではないかもしれないが、だいだいこのような内容だった。ひとり親家庭に補助が出ることが不公平だと感じている人からの恨み言を、真に受けているようだった。そのコメントに対して当の議員は「子育て大変ですね。お互い頑張りましょう」のようなことを返していた。

いや、頑張りましょうって…。寄り添っているようで突き放している感じが否めない。「頑張りましょう、頑張ってくださいね、じゃあね」みたいな。
ここで「そんなことは気にせず、もらえるものはもらってください!あなたと子どもたちのために、そうするべきです」と声をかける人だったら私も支持しただろうなと思う。

そもそも、様々な立場の人たちが、それぞれの形で支援されるのには、それなりの理由がある。しかし、例えば子育て家庭に補助金が出ると、それに当てはまらない人たちの中には、「子どもがいない自分たちは何ももらえないのが不公平」「なぜ私たちの税金が使われるのか」と言う人がいる。でもその人たちだって、他の場面では、様々な補助や行政サービスを受けているはずだ。同じ税金を払って、同じ金額をもらえるなら、それはただの貯金だ。平等とは”何を与えられるか”ではなく、与えられた”結果”がどうなったかだと思う。結果みんなが、ある一定レベル以上の生活を保障されるということだ(それがすべてうまくいっているかどうかは別として)。

初出の母子家庭の方が、どんな立場の人にどんな言葉で咎められたのか、具体的には全く分からないけれど、”平等”に対する解釈が違う人の言うことは、「ああ違うんだな」と思っていればいいと思う。みんなが同じ価値観でいることは不可能だし(それもまたある意味気持ち悪い)、他人の価値観を変えるのも無理な話。違うと割り切って、自分の価値観で選び取っていくほうが圧倒的に楽だ。

私たちは、他人に咎められるのが嫌で、それを避けて通ろうとしすぎなのではないかと思うことがある。”迷惑をかけない”ことに神経をすり減らすあまり、人との繋がりが薄くなっているような気もする。この”迷惑”という言葉、その意味する範囲が少し広がりすぎてはいないだろうか。”他人にちょっと何かしてもらう=迷惑”と捉えられている面があるように思う。

個人的には、”迷惑”自体はかけてもいいというか、むしろかけ合って生きていると思っている。ダメな”迷惑”は、他人を嫌な気持ちにさせること。そこさえ気を付けていればいいのではないだろうか。確かに、例えば電車のベビーカーや赤ちゃんの泣き声にムッとする人もいるかもしれない。だがそういう人は案外少数なのではないかと思う。そういう人に当たったら、ちょっと運が悪かったなと割り切るが吉。社会のマナーやルールを守りつつ、堂々として良し!と思っている。

Instagramのコメント欄でモヤッとしたのをきっかけに、なんだかつらつらと書いて、とりとめがなくなってきた。”平等”とは何か、”迷惑”とは何か、を掘り下げるともっと深いだろうな。誰かと、つらつらと、そんな哲学してみたい。

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