太陽が嫌いだった
引かれ者の小唄
ってさっき頭に浮かんだ。
久しぶりだなー。
30代前半だったかなー、なにかと「引かれ者の小唄」が浮かんできた。
太宰治の小説でこのことば知ったんだ。その前から知ってたかもしれないけど、引かれ者の小唄が出ると自動的に太宰治。
生きてるの?死んでるの?
中学のとき、凶暴な教員がいつもの嘲笑を浮かべて「生きてるか~?」
「生きてるか?」と問われて、考えた。わたしは生きているのだろうか?
死んではいないが、生きているようではなかった。
小学校高学年のころから、もういいから、終わりたい、という気分があった。あのまんがのつづき読みたいな、なんて気が逸れて─気を逸らして騙し騙しずるずるずるずるずるずる
無間地獄 焙烙 消えたい
10代終わりから20代半ば、自分は「異物」で。ぺらぺら紙に描かれた自分が紙から切り離されてるようだった。
焙烙で炒られてるようだった。
手も足もない異形の生きものがのたうち回っていた。
消えたいなー
雑踏─晴れ─空を見上げている自分の細胞がぱらぱらとほぐれて空に上って泡みたいに消えればいいなー・・・と思った。そんなことには絶対ならないって知ってるから限りなく悲しい気がした。
この書名と絵が──かつての希いが形になって──目に入ったときの驚き。
早く人間になりたいよー
って思ってた。20代のころ。どうしたって自分が人間って気がしなかった。
じゃあなんだ?
それはわからなかったけど、人間ですとは思えなかった。
疲労困憊
って日記に何回書いたかわからない。
20代後半か。さあ、掃除するぞって掃除機スイッチ・オン。広くないよ、うちは。そこを横になって休み休み掃除機かけたなー。
出かけたらからだも脚も異様に重くなって、足は痛くて、歩きつづけられなくて休み休み、やっとの思いで帰り着いて、床にひっくり返ったなー。
死にそうに疲れてた。
疲れた疲れた疲れ果ててた。
残骸 イケルシカバネ
30代か。気がつけばわたしが見つけたわたしは破壊し尽くされた残骸だった。残骸を拾ってのりだのテープだので貼っつけた不様な後ろ姿がよく浮かんだ。のりだのテープだので貼っつけて辛くも「人の形」らしきまとまりにしただけの残骸は、動く度に、ぼろぼろ落ちる。不様が痛々しく、イケルシカバネの実感に胸が痛んだ。あんまりだと思った。
トルストイの戯曲、へえ、全然知らなかったー。