『蒼穹の昴』宝塚歌劇団の本物を創る力




ネタバレしかないので、まだ舞台を未見であるという方はお気をつけください。


 『蒼穹の昴』は亡き祖父との思い出の本だ。

 10年前、中学3年生の夏、遊びに行った祖父宅の書斎で装丁の美しい本を見つけた。浅田次郎氏の『蒼穹の昴』だ。運命を変えようともがく登場人物に魅了され、訳もわからずひたすらに読み進めた。この時初めて「蒼穹」という言葉を知り、辞書で調べてはその意味に恍惚とした。(習い事の書道で「好きな文字を書きなさい」という課題が出て、迷いなく「蒼穹」と書いた記憶がある。)

はじめに

 頭の中で駆け回っていた登場人物たちが目の前に現れた。紫禁城が、北京が、文秀が、春児が、玲玲が目の前に現れた。「現れた」以外に適切な表現が見つからないほどに、「本物」が目の前にいた。

 残念ながら私は北京に行ったこともなければ、紫禁城へ観光に行ったこともない。文秀にも春児にも玲玲にももちろん会ったことなどあるわけがない。けれども、あの舞台には一つも嘘がない。役者だけでなく、先生方やスタッフ、宝塚の総力をあげて「本物」を創りあげている。

舞台セット、小道具、お衣装について


 キャスト別の感想から行くと、この話を書けないまま力尽きそうなので、先に舞台セット、小道具、お衣装のお話からしますね!!

 開演5分前に息を呑む。なんという迫力。暗闇の中、白太太のお告げを聴き始めた時、観客はみな清朝に連れていかれる。紫禁城の奥行きを感じさせる作り、影や汚れが細かく描かれた小道具たち。そこで生活している人々の呼吸を感じることができる。

 ただの絵を投影した幕だと思っていたら、映像が動くことにも感動した。頤和園の幕に描かれた葉は風に揺れる。京劇役者の楽屋も一瞬しか出てこないのに、細かく作り込まれている。中国から布を取り寄せて作られたというこだわりの衣装も素晴らしい。たくさんの組子の衣装のひとつひとつに刺繍を施す労力はいかほどか。

 原作への愛を感じたのは、第二幕の第三場A譚嗣同と玲玲が原作で飼っていた黒猫が屋根の上にいたことだ。上演時間的に入れられないエピソードもたくさんあったけれど、できる限り忠実に描こうとしてくださったことには感謝しかない。パンフレットもかなりのこだわりを持って作ってくださったことだと思う。観客を物語へと引き込む準備は万端だ。

 あとね、お粥屋さんをやっている花束ゆめさん(ぶーけちゃん)が持っている匙に米粒が付いていたの…細かすぎるけど、ごはんつごうとしたら米粒は必ずしゃもじに付くよね。

 そこには人間が生きているということを感じさせるこだわりの数々。誠意を持ってこの物語を作り上げてくださって本当によかった、原作ファンとして思うのだった。

キャスト別感想

梁文秀役 彩風咲奈さん

 織物のような人物だと思う。この長い長い物語で文秀が決して忘れない「志」という糸と、他者との関わりから生まれる「思いやり」という糸で作られている。今回描かれなかった原作中のエピソードまで、彩風さんは全て掬って「梁文秀」という人物を作り上げたということを感じられる。一幕ラストで歌われる「昴よ」が素晴らしい。この歌だけで「梁文秀」という人間がどのような人間なのかを雄弁に語る。

 彩風さんが演じる文秀はどんな時でも「人の初め、性はもと善なり」という泣き母の教えと共にある。芝居では一瞬の台詞であるが、原作では大事な亡き母とのエピソードであるこの言葉を文秀の背景として的確に表現している。

 人を信じる文秀と春児玲玲との空気感も絶妙だ。春児に「自分だけうまくいったから、おいらのことなんて知らないっていうんだろ」玲玲には「文秀さんには関係ないもん。文秀さんは偉くなったんだから。」と言われた時、ざっくりと切られたような表情をする。文秀は人間を心で見ており、身分は関係ないと思っている。ただそれは身分が高く教養のある恵まれた者だけが抱くことのできる「理想論」である。原作では船中での手紙で書かれる心の内を、舞台では大声で語ることなどないが、ひとつひとつの表情で細やかに魅せてくれる。

 文秀は肉親にも相手にされず、孤独だ。そんな中で兄弟同然に感じている二人から身分の差をまざまざと突きつけられた時、文秀の「志」が動き始める。文秀の「志」の発端は小さな友人二人と幸せに暮らしたい、それだけなのではないだろうか。


 個人的すぎる意見なのだが、芸事に厳しく妥協しないという印象が彩風さんにはある。そんなタカラジェンヌとしての品格が文秀の意志の強さにつながる。それから、彩風さんってあどけなさと鋭さが共存していて、とってもミステリアス。文秀の人の心を信じる純粋さと頭脳明晰なアンバランスと重なって、どこまでがご本人でどこからが役なのかわからない。どこまでをご本人が意識してやっているのかはわからないけれど、役者としてのセルフプロデュース力が高い方だと感じる。凛とした文秀を演じられるのはこの方しかいない。


玲玲役 朝月希和さん

 花組から雪組へ、花組へ、また雪組へと、組み替えを繰り返し、彩風さんと「不思議な糸で結ばれて」雪組のプリンセスになってくれてありがとう。そうお礼を言いたい。


 ひとりの人を健気に想い続ける、そんな役をやらせたら右に出る者はいないんじゃないかと思う。控えめだけど、芯がある。とても美しい生き様。

 朝月さんの声が美しくて好きだ。ソロ歌の中で、「お兄ちゃん」と呼びかける声が胸に刺さる。文秀を迎える「お帰りなさい。」という声の優しいこと。自分の家の玄関を開けたら、希和ちゃんの声で「お帰りなさい」って言ってもらえる機能をつけたら、とっても癒されそう。


 天津へ発つ前の文秀とのデュエットが息ぴったりで、二人の視線の先には春児もいる。「さききわあさ」の三人が大好きです。お互いに尊敬し合っている唯一無二の存在という空気感が大好きです。1月ODYSSEYの公演中止を先頭に立って乗り越えたこの三人には強い絆で結ばれている、そう強く感じる朝月さんの退団公演だった。


春児役 朝美絢さん 

 ※文字数が異常ですが、他の方を貶めたいという意図は全くなく、ただ私の重たい感情が悪いのです。

 芝居が上手いというのは芝居をしているということを観客に感じさせないことだと思う。当たり前でシンプルだけど途方もなく難しいこのことを、朝美さんは一分の隙もなくやってのける。

 当然だが、宝塚歌劇団に子どもはいない。だから芝居に子役が出てくる時、観客は「あぁこの子は子役なんだな」と自分を納得させて観るということがままあると思う。

 中国の貧しい村に生まれ、糞拾いで生計を立てる少年。自分で事を成し、宦官となった少年。何から何までただのお芝居でしかないはずなのに、そうとは思えない。春児がただそこにいる。少年がいる。くるくると動く大きな瞳は、すべて真実を映しているようにしか見えないのだ。


 朝美さんのお芝居でいつも好きなところは、役によって全く歩き方が異なるところだ。静海での幼い少年だった時から、富貴寺で修行を積んでいる時、そして宦官となり西太后のお側で控えている時。ひとりの人間が成長していく様を感じる。時間の流れを感じさせる。

 ただ用意された台詞を上手に話すというわけではなく、「そこにいる」。「西太后さま」と呼びかける声が毎度異なるし、側に控えている時もただの顔が良いお飾りの京劇役者なのではなくて、ちゃんと物事を見極める聡明さがあるのだ。京劇の場面では難しいことをやっているはずなのに、「挑滑車」の物語を演じている春児の顔をしている。


 特に日本公使館での場面は、この物語の中でも涙なしでは見られない秀抜さに満ちている。
宝塚を観る観客の多くがメタ的に涙を流したことがあるのではないだろうか。「〇〇さん今回大きな場面任せてもらえて良かったね」「お衣装にキラキラがたくさん付いていてよかったね」といった涙だ。これが悪いことではないし、私もよくこんな理由で涙を流す。

 しかし、日本公使館の場面で私が流した涙は全く種類が違うものだった。どうしようもなく涙が流れて止まらない。春児がそこにいて、文秀を想っている。誰かに感情移入をするというわけではなく、私はあの不安定な時代に清の日本公使館にいて、文秀と春児の絆を目撃しているような気分にさえなる。そんな涙なのだ。信頼できる義兄の前では、子どもに戻ってしまう。どうやって朝美さんがあの泣き方を生み出しているのか全く想像がつかないが、日によって泣き方や嗚咽が違うことには衝撃を受けた。朝美さんの心の中には少年がいるのか?大人が子役を演じていることがわかって、泣く演技を見ているとこちらが恥ずかしくなってしまいそうだが、全くそんな嫌らしさなど感じさせない。春児がそこにいて、泣いている。


 芝居の中で歌う歌も際限なく美しい。台詞と歌が入り混じっても言葉が滑ることがないし、全て明確に聞き取れる。

 「宿命の星」のリプライズが素敵だ。京劇が終わった後の文秀とのデュエットと、船に乗った文秀・玲玲と3人で歌うときがある。一幕は京劇の師匠である黒牡丹の死を経験し、母の死を知らされた後に歌うので自分を奮い立たせるように、二幕は文秀と玲玲を励ましながら見送るという歌い分けをしている。歌詞は同じなのに、全く違う情景を見せてくれるのだ。

 春児が歌う「遠いあの日〜」の部分、一幕で歌う時は静海で昴を探した幼少期の「あの日」の光景を、二幕では身近な人の死に打ちひしがれながらも文秀に励まされ、紫禁城で昴を探した「あの日」を見せてくれる。私が死ぬ時には、朝美さんを追いかけた「あの日」の光景を見たいので、死ぬ間際にはこの曲を耳元で誰か流してほしい(重すぎる)


「運命なんて、頑張りゃいくらだって変えられるんだ。」

桟橋を「まっすぐ歩いてくる」時、光り輝くその姿を見ると、朝美さんご本人のたゆまぬ努力に感極まってしまう。そして、ライトが消えるその瞬間まで、決して笑顔を失わない春児がいる。とてもシンプルで難しいことをやってのける、なんて役者なんだろうと思うのだ。


順桂役 和希そらさん

 原作を読んだ時は、順桂のことがすごく嫌いでした、ごめんなさい。一人で先走って、そのせいでみんなに迷惑かけて!と思っていたけど、和希さんが血を通わせた順桂はとても魅力的だ。

 科挙合格時はまだ青臭さが残る青年なのだが、楊先生を失い西太后への恨みを募らせて破滅へ向かう様がとてもかっこいいのだ。妻と子という愛する人がいるということを感じさせる包容力もある。

 「葉赫那拉の呪い」を十分に説明する時間のないまま物語が進むのが残念だが、まあ細かいこと言わなくても和希さんの演技力と歌唱力で説得できるでしょと信頼されていることがよくわかる。

 災いをもたらす葉赫那拉の女から愛新覚羅家を守るように、満州旗人である順桂は代々伝えられている。西太后暗殺計画は、彼の家柄によって定められた運命だった。しかし、爆弾を鞠だと勘違いした幼女を救うために自らの命を捨てる。人生の最期に運命を変える。死に様がかっこよく感ぜられるのは、そこに至るまで丁寧に家族がいる包容力を示してきたからだと思う。舞台には妻子など登場しないのに、一言の台詞と立ち姿だけで人間性を表現する。『蒼穹の昴〜順桂編〜』があるならば、和希さんの丁寧な芝居をもっとたくさん観てみたい。


おわりに

 フィナーレの感想は色々あるような気がするけれど、観る度いつも正気を失っていて文章には表現できないから早々に諦めました。

 他にも脇を固める役者たちの素晴らしいことや、娘役たちのカツラやアクセサリーのこだわりなど語りたいことは山ほどあるのだけど、文字数が大変なことになるのでやめておこう。



 昴というのは一つの星ではなく、数百に及ぶ星々の星団らしい。


 文秀と春児は昴に希望を託し、昴に導かれる。迷いの淵にあっても、昴は心を照らしてくれる。お告げは叶わないと知っていても、昴を信じる気持ちがあるからこそ、自分が生きることを肯定できる。

 なんだか聞いたことがあるような話ではないか。苦しくて消えてしまいたいと思う時であっても、好きな人を愛おしむ気持ちがある自分のことだけは許せる。宝塚のスター(昴)に導かれて、ファンの我々も自分の運命を常に変えていると思う。宝塚が見せてくれる夢は虚構かもしれない。それでも、虚構から本物を創る努力を信じ続けたいのだ。

 劇場に行けば、自分だけの昴に出会えることだろう。



余談。
当時思春期真っ只中だった私は、祖父と本の感想を語らうことはなかったことが悔やまれる。戦争・原爆を経験しながらも、生きることを選び続けた祖父はこの物語をどう読んだのだろうか。今は知る由もないけれど。

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