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『海辺のストルーエンセ』考察

色々なことが気になりすぎるので脳内を整理するために、考察記事を書きました。(今までTwitterでポツポツと呟いていたことのまとめです)

この作品は自分の心で納得しながら観ていく楽しみがある作品だと思うので、その楽しみを奪われたくない方は読まないでください(笑) 人には人の受け取り方があると思うので、自分の心のまま楽しむのが一番だと思います。

これはただの私のわがままなのですが、梅田院での限られた診療で見るべきところをクリアにしたいという狙いもあって書きました。細かいことでも「ここはこういう意味じゃない?」というご意見がある方は、ぜひTwitterのDMやリプライでもお返事ください。よろしくお願いします!!!私は人の意見が聞きたいです!!!

以下、全て私個人の意見ですので、ご容赦ください。

物質的なものが心理的な何かを象徴しているのかなぁと思ったので、「朝」「炎」「潮騒」「狼と太陽と月」「芝居」「仮面」「海辺」「海」について考察します。

God morgenという歌い出しで始まって、ラストシーンは朝焼けで終わる。主題歌の「終わりか始まりか」は、前の日の終わりでもあり、次の日の始まりでもある朝を指しているのかなと思った。「朝」に関連した「眠り」について、気になるところがいくつかある。

眠り = 時代遅れな考え で私は考えている。

① 冒頭の主題歌「私だけが目が覚めている」、二幕でストルーエンセの政治が始まった時は「私たちだけが目が覚めている」だった。ユリアーネとグルベアは「静かに 静かに 今は目を閉じて」と歌っていて、宮廷内で目を閉じているんですよね〜

ストルーエンセは自分だけが目覚めて現実を見ていると思っていたのに、「子供たちも夢から覚めますから」と話すユリアーネからしたら、ストルーエンセが見ている現実なんてただの夢なのも辛い…

② クリスチャンは「Sleep no more.目を閉じていたい」と歌っている。これ、シェイクスピアの『マクベス』ですよね。(ナウオンで縣さんも話していた)

王を殺したマクベスは幻聴を聴く。
“Sleep no more. Macbeth does murder sleep.(もう、眠らない!マクベスは眠りを殺した。)”

クリスチャンも王宮の中で「目を閉じて」眠り続けていたいけど、無能な王のままではダメだという自覚が「Sleep no more.」なのかなぁ。シェイクスピアに関して全く詳しくないので、どなたか教えてください。

③ 愛の錬金術の場面で、ソフィーが「今夜はいい子にして早く寝ます!」って言うところ(妃華ゆきのさん、かわいい)、王宮の一員として、ソフィーは「目を閉じて」いますよってことにも受け取れそう。

④ 一幕の仮面舞踏会の曲「眠りを知らない月と太陽は〜禁じられた言葉はおやすみ おやすみ(うろ覚え)」だった。

神話の話で後述しますが、
月 = カロリーネ、太陽 = クリスチャン
なのだと考えると、「時代遅れな考えを理解しないカロリーネとクリスチャン。時代遅れな考えは禁止される。」に置き換えられますよね。そして遊戯で勝利したストルーエンセは啓蒙思想を口に出すという流れに繋がってるのだと思った。

これはフォロワーさんから教えてもらったんだけど、「眠りを知らない月と太陽」は“夏至だから夜が来ない”って意味と“啓蒙思想”とダブルミーニングなんじゃないか、とのこと。いや、深すぎる。

⑤ この話でストルーエンセの生涯は、燃えている海(朝焼けの海)で終わる。朝が訪れ、「眠りが終わる」というのは、「今後、啓蒙主義の時代が始まる」という風にも受け取れるような?そう考えると、何者にもなれないストルーエンセの人生は無駄ではなかったと思えるし、希望がありますね。

「炎」たくさん出てきますよね!政策も街灯を作ることだし、主題歌も「朝が燃えて〜♪」だし…

炎 = 啓蒙思想(世界を照らす考え方)という意味もありそうだけど、ただそれだけではなさそうな気もする。

「心に灯る炎」と、「灯や焚き火の炎」は別物と考えなきゃいけないのかなと勝手に思っています!

自分の中にある「心に灯る炎」 = 恋心や野心
自分の外側にある「灯や焚き火の炎」 = 本性を明らかにする明かり

なのかなと思った。

主題歌「狼の如く〜」だし、劇中劇でも「化けるのが得意」って言われてるから、獣の様な本性をストルーエンセ先生は隠すのが得意なんだと思う。実際、貴族相手の商売は成功してそうだったし。

最後に海辺でランタン(あの時代にランタンとは言わない?)を覗き込んで「私は何者にもなれなかった」って言ってるし、カロリーネは「海が燃えているわ」って言ってるから、燃える朝日に照らされて最後は何者にもなれない本性を表したってことかな〜って考えてました。

② 夏至祭の話してる時に「あなたに炎は必要ない」と言うのは、カロリーネは正真正銘の王妃で炎で自分の姿を照らして自分が何者かを確かめる必要はないって意味なんですかね。そして、何者かになりたいストルーエンセは「王妃になんてならなければよかった」という言葉で泣くんだなと合点がいくような?

③ 「イカサマな王様は地獄の業火に焼かれて」とクリスチャンは歌っているけど、地獄の業火の前で本性を確かめたら、彼は「イカサマな王様」ではないから焼かれることはないだろうな〜と思ってた。

④ 「灯や焚き火の炎」は本性を明らかにする理論でいくとですね、萌えが発生するんですよ(笑)「なぜ頬を赤らめる」の答えが「それは炎のせい」って答えると、「カロリーネの本性はストルーエンセに恋して頬を赤らめる一人の女なのですよ」って意味になりますよね!?すごいツンデレ告白じゃありません??

潮騒

何も音がないところと波の音の対比が全編通して美しいなと思います。

① 男爵と召使の恋が気になる。(詳しくは後述します)一幕第6場と第7場の転換の仕方が、男爵(苑利香輝さん)が召使(白綺華さん)に貝殻を渡し、召使が貝殻に耳を当てて潮騒を聴き、劇場中に波の音SEが流れる。そして、第7場のストルーエンセとカロリーネが海辺で初めて本音を打ち明ける場面へ。

「波の音なんて寂しくならない?」「寂しい音も悪くない」「耳を澄ませていると王妃様の心の悲鳴が聞こえるかも」という台詞から、潮騒 = 本音なのかなぁと思った。男爵と召使の二人も目線は合わせないけど、本音は愛しているといったことを貝から流れる潮騒で伝え合ってるのではないかと思う。

② 「なぜ開いた口をつぐむ」「それは潮騒のせい」も、「本音は言えません」というメッセージなのでは?(その後すぐに本音言っちゃってるけど笑)

③ ラストのクリスチャンには「今日は波の音がよく聞こえる」から、ストルーエンセの言葉に隠された本音をわかっているよって意味なのかなって思ってた。


潮騒考察が正しいかは知らんけど、白綺華ちゃんがカテコでお辞儀した後、貝を耳に当てて潮騒を聴くポーズをしていたのがとにかく可愛かったので、みなさん観ましょうね。

狼と太陽と月

① これも教えてもらったことです。備忘録として紹介。

「マーナガルム」という狼が北欧神話に登場するらしく、

すべての死者の肉を腹に満たし、月を捕獲して、天と空に血を塗る。そのために太陽が光を失ってしまう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マーナガルム


狼 = ストルーエンセ  
太陽 = クリスチャン  
月 = カロリーネ


と考えると、とっても納得。ストルーエンセのせいでクリスチャンは光を失ってしまっていた…


② あさめろデュエットのかけ合いが赤ずきんみたい、と仰っている方がいたので、ドイツ語辞書片手にグリム童話の原文(最初の方だけよ!)を読みました。

ただの赤い布じゃなくて「rotem Samt(赤いビロード)」だった!カロリーネが歌う「青い海を掬ったビロードのドレス」なのも「赤ずきん」をモチーフにしているのか?赤ずきんの狼は「本性見破られるけど化けるのが得意」だもんね…

芝居

劇団員達が「決まった役目と決まった言葉」「役を間違えたら首切られる」と繰り返し歌っている。

① 芝居をしているのは劇団員達だけではなく、宮廷人達もだ。宮廷の歌がデンマーク語の数字だと教えてもらいました。そうして観ると「機械仕掛けの宮廷人」の意味がよくわかったし、宮廷人は「太陽/月は東から昇り西に沈む」「右手を出し左手はひく 左手をかかげ右足はうしろ」という「決まった役目と決まった言葉」を守り続けている。

しかし、ストルーエンセは仮面舞踏会の遊戯の後に侍医としての役目を外れ、決まりを守らない発言をする。ユリアーネ様の「先生にもちゃんと決まりごとを教えてあげないと気の毒ですわよ」が身に染みて怖い。だって、クリスチャンは「逃げ切った者が真の王になれる」と言って、決まりを教えてあげないんだもの…

二幕のストルーエンセとカロリーネの恋を風刺する劇中劇のあと、劇団員だけでなく宮廷人も「決まった役目と決まった言葉」「役を間違えたら首切られる」と歌い、ストルーエンセを責めるのがめちゃくちゃ怖かったんですけど、宮廷人も自分たちが常に芝居をして「目を閉じている」自覚があるのでは?

ところで、劇団員メンバー達の歌・芝居・ダンスが素晴らしいなぁと思っています!!特に莉奈くるみさんのシャウトするような歌声が耳にずっと残っていて好きです。あと、壮海はるまさんの「化けるのが得意」ってやってるところの大きな手がかっこいい。

② 一幕の海辺の追いかけっこも、最後の海辺でカロリーネの手を引くストルーエンセ先生にも照明が当たっていなくて美しい影絵のお芝居みたいと思っていた。その後、ライトに照らされて姿を現してから(影絵芝居ではなくなってから)、二人は海辺で本音を話し始める。

この照明の使い方は、決まった役目と決まった台詞から離れてしまうことの表現なのかなぁと思っていた。

③ 男爵(苑利香輝さん)と召使いの女(白綺華さん)はずっと役を守り続けていますよね。前述した、男爵が召使の女に貝殻を渡す時に、劇団員達は「観客笑わせ 時々逆撫で 役を間違えたら 首切られる」と歌いながら、じっとりと男爵と召使の二人見ているんですよね。「役を間違えるな」というメッセージなのかなと思いました。ここでの白峰ゆりさんと莉奈くるみさんの表情が怖くて好きです。

仮面


仮面舞踏会における「仮面」は、普段の決まりを超え、「芝居」をやめて、「何者にでもなれる」ということですよね。ただし、それは遊戯に過ぎないのだけど。

どうしてストルーエンセがウサギなのだろうと考えていました。ユリアーネが猫なので、「窮鼠猫を噛む」ということわざのように、ネズミでもいいのではないかと。クリスチャンの手をストルーエンセが噛む場面もあるのだから。

ウサギが象徴するものを考えていて、『今昔物語集』「三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く語」に行き当たりました。

飢えた老人のためにウサギは火の中に飛び込んで、自らが食べ物となる。実はこの老人は神様だったので、この兎の姿を月に描いた。というようなお話です。(『今昔物語集』の元はインドの説話ですよね?デンマークとの繋がりは正直知らん笑)

ウサギ = 捨身慈悲(自己犠牲)なのかなぁと思った。燃える海で死ぬのですから。

蹲りソングを歌った時点でストルーエンセは、自分の身の程を思い知っているのだと思う。自分の「役」を思い出し、逃避行の前にはもう自分は生きてはいられないことをわかっている。だから、「大丈夫、あなただけは助かる」ように手筈を整えていた。(この台詞の言い方が優しくて優しくて本当に辛い)そして、自らが悪人となって死ぬようにクリスチャンへ差し向ける。ラストシーンの「芝居をする芝居」をする朝美さんが素晴らしいと常々思うのですが、台詞にはない感情が朝美さんの慈愛に満ちた眼差しから伝わってきます。

自分のことを獣(狼)だと自覚しているけど、自己犠牲のウサギという自己認識はなさそうなのがストルーエンセ像としてまた良いですよね。ストルーエンセは「野心の人」なのかなぁと思っていたけど、国を愛し、クリスチャンを愛し、カロリーネを愛した「愛の人」なんだと思います。そして、それが指田先生の「朝美絢」さんというタカラジェンヌへの当て書きなのかなぁと思いました。

海辺

海と海辺を一緒くたにして考えてしまっていたので、初めの数回は「?」ってなってたのだけど、「海」と「海辺」はきっと区別して考えないといけないですよね〜

どなたかも仰っていたのを見かけたけど、こう考えています。

海辺=本音を語り合える場所

海辺は常に潮騒が聴こえる場所だしって考えると、さっきの潮騒 = 本音とも繋がりそう。

「海よ歌え 好きな言葉を」「海よ歌え 魔法の言葉を」「海よ消して 秘密の言葉を」という歌詞があり、
「小瓶に詰めこんだため息はそっとそっと波間に漂う
砂に教えた願いは瞬く間に泡立つ波にどこか遠くへ(うろ覚え)」とカロリーネも歌っていますよね。

好きな言葉/魔法の言葉 = 禁じられているけれど心躍らせるもの
秘密の言葉 = 禁じられた関係における愛の言葉
ため息 = 宮廷での人間関係の不安
願い = 良い王妃になりたい


という図式が成り立つような気がして、やっぱり海辺は本音を話す場所なのかなぁと思います。

(「砂浜に文字を書いて、波に消された」という情景を伝えるために、どうしてこんな美しい歌詞が思い付くのだろうね…音彩さんの歌声も素敵です…)

海 = ストルーエンセが愛するもの

海=何か?というのはこの公演のメインテーマな気がするので、一言では言うのが難しいけど、強いて言えばストルーエンセの愛の対象なのかなと思う。

① ハンブルクのアルトナという海なし県(?)にいたストルーエンセにとって、海はデンマークの象徴的存在なのでは?「この国に来るまで海が泣くことも笑うことも知らなかった」という台詞もあるし。

客席 = 海 だと思って観てみると、朝美さんが客席を観る度にどんな表情をしているかによって、「海」への解釈広がるなと思った。(台詞なしでも想いを伝えられる朝美さん、素晴らしいですよね…)

第7場でしたっけ?「この国を変えてみたくなる」の後に朝美さんが客席を観て暗転する時の表情を野心だと初日ツイートした気がするのだけど、後から観た時に野心ではなく、愛おしいものを見つめる瞳だと思い直しました。

衣装の金箔 = 欲望?だと思っている前提で、話を進めていきます〜第8場でクリスチャンとユリアーネのお茶会場面があるので、欲望に忠実な野心のストルーエンセならばストライプのお衣装(アルトナ時代の衣装)からポスターの金箔が付いたお衣装に着替えようと思えば着替えられるはずですよ。中の人は早着替えの達人だし笑

でも、ストライプのお衣装のまま第9場のフォレルスケットが始まるということは、初めてフォレルスケットを感じた時はまだ「欲望」のようなものをストルーエンセは持ってないわけですよ。ただ権力を握りたいのではなく、海を大切に思う気持ちが強いのではないかと思います。

第7場の最後に客席(海)を見るストルーエンセは「愛おしいものを守りたい決心」を心に秘めているのではないでしょうか?しかし、第9場でカロリーネと心を通わし、美しい海を持つこの国を「守りたい」よりも「変えたい」という欲望に心が動いてしまって、第10場の仮面舞踏会ではポスターの金箔が付いたお衣装で登場するんじゃないかと思いました。

③ 二幕第2場のイチャイチャ浮かれソングで、カロリーネに向かって「海をたたえた瞳はなぜ私に突き刺さる」と言っていた。ストルーエンセにとって、「海」は愛おしいものであると考えると、「愛おしい人だ」の台詞も厚みを増すような?

④ ストルーエンセ最期の台詞「なんて美しいんだ」も客席に向かって言う。最期にライトで作られた道を真っ直ぐ歩いて客席に向かって歩いてくるのは、海になったんだなぁと思いました。

⑤ ここからはお花畑脳の解釈なんですけども(笑)、海って世界中どことでも繋がってるんですよね。川となって大地に流れることもできる。

クリスチャンは海の美しい国の王として太陽を取り戻した。カロリーネが最期の時を迎えたツェレ城は川の近く。(Celleは「水路」などを意味する語らしいですね。)

ストルーエンセが最期に海になったということは、この三人は永遠に繋がり続けることができるということでは?という超お花畑解釈を私はしています。「戻れるならいつに戻りたい?」「三人で笑い合っていた時に」「それが一番難しい」でしたけど、ストルーエンセは最期にカロリーネの願いを叶えてあげたのではないかと思う。

舞台装置と衣装について

① 四角形のライトが印象的に使われているなと、3階席から観て気づきました。冒頭のストルーエンセの助手時代は牢獄のようなライトで照らされていて、クビになるところも四角いライトに囲まれていた。「俺は何者かになってやる」という台詞と共にこの四角形が消えるのも考えられているなぁと思いました。

最期にクリスチャンとカロリーネも四角形のライトの中にいて、クリスチャンは傀儡の王となり、カロリーネは囚われの姫君になるのだなと。

② セットが全て赤と青で統一されていることに、KAATの千秋楽でやっと気づいた。スーラの絵画のように、赤と青の点で全て色付けされている。

赤 = 炎、青 = 海 ということですよね?

場面によって、壇の青いところが多い面が客席を向いたり、赤いところが多い面が客席を向いたりしているのも面白かった。

③ ストルーエンセとカロリーネの心が燃えている時を「赤」のお衣装で表現しているみたいだった。蹲りソングの後は、ポスターの衣装に戻っているというのも、心の炎の表現ですよね。蹲った後に「炎が消えた」(←超ニュアンス。ここの歌詞は朝美さんの素晴らしい技術で余裕で聞き取れるんだけど、私の胸がいっぱいすぎて覚えられない。)と歌った後に、出てくる時の衣装は緑に変わってますよね。

(私、ストルーエンセ先生がテニスしている時のお衣装が一番好きです…あ、いや全部好きなんですけども…)

梅田院でやるべき治療(確認したいこと)

ムラサキツユクサって結局なんなんや問題

ムラサキツユクサは一日で枯れてしまうから、花言葉が「ひとときの幸せ」らしいよ〜 不倫も、宮廷で権力を手に入れるのも「ひとときの幸せ」なのかなぁとも思ったけど、「ムラサキツユクサ!」に至るまでの歌詞が覚えられないので、花言葉は本質ではない気がする。

さいごに

全ての楽曲が美しいのに曲名がわからないので、蹲りソングとかイチャイチャ浮かれソングとか言ってすみませんでした。色んなことを受け取りながら意識が動いていくのが観劇体験だとするのならば、台本や歌詞がわからないのも仕方ないのかなぁという気もします。(宝塚のシステム的にも仕方ないのかなぁ…🥲)

有難いことに何度か観させていただく中で、どんどん自分の受け止め方が変化していくという体験が私はとても楽しかったです。これまでに舞台を観てこんな感覚になったことはありませんでした。

私一人では思いつかないようなことを考えていらっしゃる方のお考えを知ることができれば、更に新鮮な感覚を得られそうなので、どうか「ここはこうじゃない?」というご意見を私にご教授ください(?)よろしくお願いします!!!!

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