見出し画像

『海辺のストルーエンセ』フォレルスケットの意味を考えている


 2022年8月30日に公演が発表されてから、ずっと楽しみにしていた「海辺のストルーエンセ」が始まりました。朝美さんのために書き下ろされた新作という良さを噛み締めています。


 贔屓が主演を務める公演での楽しみの一つが、開演アナウンスだと思います。私は朝美さんの声がきっかけでファンになった人間なので、ここだけで胸が張り裂けそうなトキメキを感じるのですが…どうしても副題の「ミュージカル フォレルスケット」の意味が気になってしまうのです。


(『冬霞の巴里』を観た時も「Fantasmagorie」の意味を散々考えていたのだけど、指田先生はいつも凝った副題を考えてらっしゃいますよね。)


以下、ネタバレしかありません。ご注意ください

「海辺のストルーエンセ」というこの作品について、類稀な表現力を持つ朝美絢さんと、繊細な言語感覚を持つ指田先生の挑戦なのではないかと私は考えている。

言葉には限界がある


 突然ですが、ここからしばらく公演に関係ない小難しい話が続きます。飛ばしてもらって結構です!笑 ちなみに観劇中の私はこんな難しいことを考える余裕などなく、「わぁちゅーしてる〜!!」としか思っていないような人間なんですけどね…!

 太古の昔、天地が創造された時。
「モノが生まれる」のと「言葉が生まれる」のはどちらが先なのかということを昔からずっと考えている。
私はキリスト教を信じている訳ではないのだけど、聖書に書かれた次の記述についてはとても興味深い。

初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、暗が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

 「光あれ。」

 こうして、光があった。
旧約聖書 創世記 第1章1〜3節
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
旧約聖書 創世記 第2章19節


 ここでは「ものが生まれる」のが先だと言っている。巷では「唯名論」などと呼ばれる考え方だ。つまり、「羊」という動物がいたから、それに「羊」という名前をつけましたってこと。まず「モノ」が存在していて、その「モノ」一つ一つにラベルのように名前が存在している。


 しかしながらその一方で、新約聖書には正反対の内容がある。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
新約聖書 ヨハネによる福音書 第1章1節〜4節


 こちらはソシュールの言語学的な考え方だ。幼少期の人間が言葉を覚える過程を考えてみると、生まれた時から「犬」という名前を知っている赤ちゃんはいない。同じ四つ脚の動物だけど、犬と猫は大きさや姿形、鳴き声が異なるという区別を認識して初めて、「犬」「猫」という概念が意識の中に誕生する。つまり、「言葉」と「モノ」は同時に生まれるということだ。

 先にあげた唯名論のように、「ものが生まれる」のが先なのであれば、世界中で訳せない言葉など存在しないはずだ。しかし、他の言語に過不足なくぴったりと訳せない「フォレルスケット」のような言葉がある。例えば、日本語の「白米」は英語に訳せるのか?というと「white rice」では何かが決定的に違うだろう。米を主食とする日本文化で話される日本語は、「白米」「新米」「古米」「餅米」「玄米」などなど「米」に関する言葉がたくさんあるけれど、それら全てを他の国の言語に過不足なく翻訳できるだろうか?


 言葉を持つということは世界をどう認識するかを身につけることであり、それは文化によって異なるというソシュールの主張はおそらく正しいのであろう。


 しかし、「言語や文化が異なると、完全に伝えられない言葉があるね」で終わっていいのだろうか?


 『海辺のストルーエンセ』で指田先生は「言葉の限界を超える」ことに朝美さんと一緒に挑戦しているのではないかと、私には感じられてならないのだ。

台詞という言葉の限界を超えるミュージカル


【ここからやっと公演の感想に入ります。小難しい話で眠たくなっちゃった人、ここまで読んでくださってありがとう。】


 今回の公演で、演者と観客は日本語を共通項としているけど、台詞という言葉で何かを伝えるだけが芝居なのか?というとそうではないはずだ。

 言葉通りの意味ではない台詞が多くある。

 ストルーエンセはチャラチャラしている。しかし、それが本心なのではなく、本当は心の奧でずっと野心を燃やし続けている人だ、ということが伝わってくるギラギラと輝く瞳。カロリーネに語りかける時など、「本心」と「冗談」を一瞬にして使い分けている。

 最も秀逸だなと思うのは、ストルーエンセが嘘をついているのは同じ舞台に立つ人物にも伝わっているということが観客にもわかるメタ的な「芝居をしている芝居」だ。

 真那さん演じるランツァウ伯爵に執務室で不倫について詰められて、動揺していることを真那さんに見せないように隠そうとしているけど、明らかに真那さんには伝わっている。ベッドの場面やラストの海辺の場面で、縣さん演じるクリスチャンや音彩さん演じるカロリーネにはストルーエンセの台詞は嘘だと見破られている。

 朝美さんの芝居にはいつも嘘がない。常にストルーエンセとして舞台上に存在しているため、僅かな口の歪みや声色の変化、目の輝かせ方、睫毛の震えといった細かな芝居で、今の台詞は本音なのか、嘘なのか、という台詞を超えた心情を明確に伝えてくれる。

 他にも台詞という言葉では収まりきらないものを朝美さんが表現する場面で、個人的にお気に入りの場面を列挙する!一幕ラストと二幕ラストはどちらも同じ0番の立ち位置にいて台詞もない。しかしながら、一幕では「静かな野心」を、二幕では「切ない哀愁」を言葉もなくただ歩くだけなのに、区別して表現している。同様に、一幕と二幕の縣さんクリスチャンとの決闘も同じ立ち位置であるのは、演出的に意図したことなのだろう。二幕の決闘、半周まわった辺りで朝美さんがふっと諦観の境地に至ったお顏をされたのを観た時、私の心の中の何かが浄化され、この作品に納得できた。

 そして何より、指田先生が朝美さんに何かを表現させる時に一番の方法として「歌」をプレゼントしたのだという事実がとても嬉しい。私もこれまでのnoteで散々と語っているし、多分たくさんの方が思っていることだろうけど、朝美さんの歌はただ用意された言葉を歌うものではない。声で景色を伝える歌だ。

 主題歌(?)である「朝が燃えて〜」の曲は何度か劇中で繰り返されるが、そのどれもが異なる歌い方だ。効果的なリプライズで「これぞ!ミュージカル!」という演出を考えてくださり、そしてその演出に朝美さんが応えているという状況が嬉しい。「俺は何者か〜」というこの作品のメインテーマに関わる歌詞を、若かりし日(第1場)に歌う時は「何者かになりたいという渇望」を、一幕終盤の海辺(第11場)では「何者かになれるかもしれない希望」を、二幕の勅令(第3場)では「権力への切望」を。二幕第6場で蹲って泣きながら歌うアンサーソングとなる主題歌リプライズは歌詞が変わっている。「朝が来ても打ち寄せる闇にのまれたまま」に変わる。(いつも圧倒されていてちょっと記憶が曖昧。歌詞を覚えている人いたら、教えてください。)そして最後の海辺では「何も見えない」になる。今までは何かしらの「望」が見えていたはずなのに「絶望」へ辿り着く。言葉の変化をここまで活かすことができるのは、言葉には収まりきらない何かを表現する朝美さんのお力故だと思う。

 舞台を初めて観た時はどんな感情で演じているとか細かく説明されていないけど、朝美さんがスカイステージや雑誌などで仰っていたことやル・サンクのト書と答え合わせすると、私があの時感じたものは正しかったんだ!ってなることありません?舞台と客席という離れた場所にいながらも、言葉では表せない感情を共有できるって素晴らしいことだと思います。

「フォレルスケット」という語が秘める可能性


 で、そろそろ本題の「フォレルスケット」の話に入る(やっと)。なぜ冒頭で唯名論(モノが先にあって、それに言葉というラベルを貼る)や、ソシュール(言葉とモノは同時に生まれる)の話をしたのかと言うと、ストルーエンセとカロリーネの恋の墮ち様に関係があると思ったからだ。

 一幕終盤「なんだか楽しい!」状態になってしまった二人。「なんだか」がキーワードとなっていて、当事者の二人にも「何が」「何故」楽しいのか明らかではなく、芽生えた感情に「恋」というラベルを当てはめて貼ってはいない。だがその後、キスをした時に初めて気づくことがある。それはきっと、ストルーエンセ/カロリーネ双方がクリスチャンへの想いとカロリーネ/ストルーエンセへの想いとの区別を認識するのだと思う。恋をしようと思ってするのではなく、クリスチャンへの感情とは異なるということに気づいた時には恋に堕ちていたという表現がとても美しいと思った。

 「FORELSKET」はデンマーク語話者の意識の中にだけ存在し、ドイツ語(ストルーエンセはドイツ出身)や英語(カロリーネはイギリス出身)で思考する限り本質的に概念化できないはずだった。だから「フォレルスケット」という歌詞が出てくる歌では、二人は「フォレルスケット」とは歌わない。「この心を知らない 例えば恋に落ちた」「はじめて はじけて」と歌っている。「フォレルスケット」と歌っているのは周りにいるデンマーク人の貴族や召使い達だけだ。

 『冬霞の巴里』では「Fantasmagorie」とフランス語表記だったのに、今回だけは「フォレルスケット」とカタカナ表記なのは何故だろうと気になって仕方がない。二人が外国人だからこそ、やはり「言葉は完全に伝えられない」ということなのだろうか。


 ここからはこうであってほしいという願望で少し飛躍するのだが、異国出身の二人がデンマーク語の「FORELSKET」を本質的ではないにせよ、「はじめて」という感情に置き換えてかなり近い形で共有することができていると私は考えたい。そして、それは皮肉にもクリスチャンのおかげだと私は考えている。ソシュールの話で「言葉の誕生には文化が関わる」という話をしたが、北欧の地で三人同じ海を見て過ごした時間が「文化」となって息づいているのではないだろうか。
 ストルーエンセはハンブルクのアルトナ出身なので海が身近にはない文化で育ったはずだが、ラストの台詞にあるように「この国に来て初めて海の美しさを知った」。海に囲まれたデンマークで、海の美しさを共有する三人は、文化をも共有することができ、デンマーク的な感覚を手に入れた。そう思うと希望が見えてくる。

「文化」…文化とは、複数名により構成される社会の中で共有される考え方や価値基準の体系のことである。
https://www.weblio.jp/content/文化


 「恋」という感情(モノ)と「フォレルスケット」という意識(言葉)が同時に誕生し、気づいたら恋に墮ちているという現象。人が恋に堕ちる瞬間なんてそうそう見られるものじゃないと思うのだけど、どうしてこんな素敵な演出が思いつくのだろう。そして、その演出に血を通わせているのは、他でもない演者の朝美絢さんと音彩唯さんだ。

 母語が異なるストルーエンセとカロリーネもまた完全に理解しあうことはできないのではないか心配になるけど、指田先生は二人に特別な愛の言葉をプレゼントしてくれた。

 夏目漱石が「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳したのと同じように、指田先生は「I love you.」を「私は最期にあなたと、この海を見たかった。ただそれだけなんだ。」と訳したのだと思う。カロリーネには「愛している」よりももっと強い抑えきれない感情が伝わったのではないだろうか。

 全てを伝えられない可能性がある言葉ではあるものの、言葉の力を一番信じているのは指田先生だと思う。言葉遊びをした台詞が各所に鏤められているいるし、とっても言語感覚に優れた方ですよね。(「僕ブラント 彼ランツァウ」「この話は使える 王に仕える 何かを掴める」「行かれましたか? 行かれた連中だ」などなど)指田先生はプログラムで「私は、一人で話を考えている時が一番退屈です」と仰っていた。やはり台詞という言葉では表しきれないものを表現することに挑戦したい、という意味だと私は受け取っている。

 デンマークにおいて外国人のストルーエンセとカロリーネが完全な「FORELSKET」ではないが、「フォレルスケット」という感情になることができたのと同じように、言語の限界を超えて観客にも「フォレルスケット」を共有しようという挑戦を指田先生はしていると感じた。どう頑張っても日本語話者の意識には、デンマーク語話者と全く同じ奥行きや厚みで「FORELSKET」という概念は存在することはないから、副題は「フォレルスケット」なのは致し方ないだろう。

 しかし、台詞という言葉では表しきれないものを表現するということに、朝美さんは今回の公演では挑んでいて、収まりきらない感情をお芝居や歌、ダンスで観客に伝えている。そして「フォレルスケット」な気持ちに私はなることができた(笑)

 そんな「果てのない」ことを朝美さんに挑戦させようとした作品だとしたら、ファンとしてとてもとても嬉しいと思います。

 言葉の力を知っている指田先生が、台詞を超えた非言語表現が得意な朝美さんに大事なところは任せてくれているって思うと超かっこよくないですか。とはいえ、ここまで考えたことは全部私の妄想かもしれませんけどね(笑)

 最後に、開演アナウンスで「ミュージカルフォレルスケット」は柔らかく、「海辺のストルーエンセ」は鋭く、姿は見えず声だけだというのに世界観を伝えてくださる表現力の持ち主をこれからも応援し続けたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?