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『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』感想

「ハッピーエンドよりバッドエンドが好き。」

最近の私の好みはそんな感じです。

現実世界でままならないことを幾度も経験してひねくれた大人になってしまった私は、バッドエンドの方が現実味を持って受け止められるけど、ハッピーエンドはちょっとむず痒くなってしまう。そんな上手くいくわけないじゃん?と。つまりは信じられないわけだ。

「信じる」ということ


小声で言っておくけど(発信してる時点で全然小声じゃない)、正直ね初めて観た時はコメディで曲も良くて楽しいけど、随分ご都合主義な話だな〜と思ってしまったんです、ごめんね。

でも、「信じる」ことで現実を乗り越えていく話なんだと気付かされた日があってこの作品が心に沁みた。『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』には色々なテーマ(超えろ想像力を!とか人生の主は自分とか)があると思うけど、「信じる」ということもテーマの一つだと思う。ドイルは魔法のペンを、ルイーザはドイルを、信じているからこそ物語は動き始める。(心霊現象研究協会のメンバーは超常現象を本気で信じているっぽい)ドイルは魔法のペンを信じているからこそ本の中からホームズが目の前に飛び出してくるし、ルイーザはドイルの才能を信じ応援しているからこそ物語の世界に入り込むことができて死ぬことはない。

というだけであれば、ドイルの物語世界における予定調和な都合の良い話として完結してしまうだろうが、現実世界(編集部やドイル一家)との関わりによって「信じる」ことの難しさと可能性を見せてくれる気がしている。

「好きな歴史小説を書きたいのに、大衆にウケない」「編集部からは良い作品を書けと圧をかけられる」「家族は離れ離れ」「妻は病気」etc... ハッピーな雰囲気に呑まれて忘れそうになっていたけど、ドイルさんには次々と苦難が襲いかかっていてかなり大変そう。つらい目に遭うのは大体現実世界の人間のせいで、「歴史小説を理解しない大衆」「編集部」「父」「母」などドイルの思い通りにいかないことの方が多い。どなたも本当にお芝居が上手だけど、パーティーで怒るハーバート(和希そらさん)の怒る芝居や、ロティ(野々花ひまりさん)の瞳にじんわりと目に涙を浮かべるお芝居が、物語全体に苦しい「現実」を知らしめる影響力があって大好きです。

ドイルは「人生の主は自分」だということは頭ではわかっていても、自分を信じ切ることができないように感じる。「僕なら僕と暮らすのはごめんだ」とかその僕と暮らしている人の目の前で言いますか?(笑)家庭ではルイーザに「あなたには書ける」と全力で信じてもらっていても、ホームズシリーズを絶賛する民衆やホームズを書かせようとする編集部の面々からは自分の才能の一部(ホームズ作家としてのみ)しか信じられてないと感じているのではないだろうか。むしろ、ハーバートはドイルのことを初対面の時から(むしろ対面する前から笑)「本物」だと認めているんだけれど。ドイル自身の才能を一番信じられないのはドイルで、だからこそ自分自身が生み出したホームズを認められないのだと思う

唐突の自分語りですけど、私もそういうことあるなと思う。大切な誰かに「あなたなら大丈夫だよ」って言ってもらえても、希薄な関係の職場の人に言われたちょっとした一言で自分がこれまでやってきた仕事すべてへの自信がなくなったりする。仕事への自信喪失だけでなく、「私ってダメな人間なのかなー働くことが向いてないのかなー」とか生産性のないことを考えてしまう。そういうことありません??私がネガティブすぎるだけ???


しかし、ドイルが人間によって苦しみ心が落ちてしまった時に、励ましてくれるのもまた人間だ。車椅子にのったルイーザが登場する場面、どこを切り取っても大好きです。音楽も何もない静寂の中に発せられる「見てた?姉さんのこと」もロティの家族への深い愛が伝わってきて胸が苦しいし、「いないんだ、もうどこにも」というのは「小説を書く才能のある自分は、もうどこにもいない」という苦しみの吐露にも聞こえる。

ホームズセンセーションという栄光が作り出したホームズの影は、ドイルの影よりも巨大化してしまった。「彼も大切な一部」であることを忘れ、ドイルを支配する悪魔となってしまった。そんな時にかけられるルイーザの「やりたいと思うことをやるだけ」という言葉はドイルにとって魔法の言葉だったのではないかと思う。ホームズ作家であることも、歴史小説作家であることも、医者であることも、ボクサーであることも、その他なんであってもドイルの一部ではなく全てを信じてもらえる。彩風咲奈さんと夢白あやさんが醸し出す、ドイル・ルイーザお互いへの慈愛に満ちた空気。とても甘酸っぱくて幸福の香りがする。

そして何より、愛する人を失うという窮地を救うのは自分が作った物語の登場人物だった。これ、ホームズがルイーザの命を蘇らせたように見えるけど、「君は僕」なのだからドイル自身がルイーザを救ったということですよね。ドイルがホームズを信じられるようになったということは、ドイルが自分自身を信じ肯定するというところに繋がっているのでしょう。

幕開きの編集部の場面がラストに同じ音楽で繰り返されるけど、ドイルと周りの人間との関係性は深まり、心の距離も変化している。自分を信じ肯定できるようになったことで、自分の才能を信じる人を受け入れられるようになった。「信じることで現実を乗り越える」というメッセージがまっすぐ響いてくる作品だと思いました。

小学生の時、いたいけな私はホームズシリーズを読んだ時に、何となくそのリアリティーに富んだ作風からシャーロックホームズは遠い昔のロンドンに実在した人物なんだろうなと信じていた。ホームズについて調べもせずただ小説を読むだけだったので、多分3年間くらいはシャーロックホームズを歴史上の人物だと思っていました(おばか) サンタさんも長い間信じていたタイプなので、あの時の私はホームズとサンタさんが存在する世界で生きていたわけです。「ホームズはいる」「サンタクロースはいる」という単純にただそれだけ。「いない」なんて可能性は微塵も感じないほど、純粋に信じていた。

あの時の純粋な心、信じる気持ちを失ってしまった私はハッピーエンドさえも信じられないつまらない大人になりました(笑)


けれど、だからこそ、


シャーロックホームズが世界中の多くの人々の心の中で「永遠の名探偵」であり続けるように、『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』という物語の登場人物も観る人々の心の中で永遠に存在し輝き続けるのだと思う。信じる心を忘れなけば。

そんなことを千秋楽のこの日に考えています。


好きな場面

物語についての感想は以上なので、細かい場面でここが好きーーーという話をします!!(どこかで誰かに話した気もするし、Twitterでも何度も言ってる内容だけど記録として残しておきます。)

咲さんと朝美さんって外見的な何かが似ているわけじゃないのに、あの二人の「君は僕」の説得力は一体なんなんだろうね??お芝居の息の合い方に、心の距離の近さとこれまで築いてきた信頼の深さを感じる。
朝美さん以外に咲さんの「君は僕」な相手はいないだろうし、咲さん以外に朝美さんの「君は僕」な相手もいないと思う。そのくらいこの二人じゃなきゃダメなんです。

「人生の主」の曲中に、「超えろ想像力を!」のメロディーが間奏として流れる。その時にドイルの後ろから想像力を超えた存在であるホームズがせり上がって登場するという編曲がなんとも緻密で繊細だ。咲さんの影が朝美さんに重なるように立ち位置も照明も考えられていて、ドイルとホームズは切り離せないのだと感じさせる演出、本当に素晴らしいと思う。

朝美さんのことが好きなので、朝美さんの話をします。ホームズ登場時の存在感と場の支配力がとんでもなくてですね、当時ロンドンでもシャーロックホームズの存在感もこのくらいとんでもなかったんだろうなと納得です。朝美さんが登場してから物語が大きく動き始めるという構成も胸が熱くなります。それから、悪魔ちゃんの微細な表情の変化も大好きです。最初はいつも通りのホームズだったのに、「悪魔」と呼ばれたことに傷つき、「悪魔」と呼ばれるからにはニョキニョキとツノが生えて悪魔になっていくという過程を、編集できる映像作品ではなく生の芝居で魅せられるのすごい。いつもエネルギッシュな朝美さんから体温が消え人ならざる何者かになり、目がギラギラと光る邪悪な何かになる。この場面は色んな意味で興奮します()


ちょっとだけ『FROZEN HOLIDAY』の話


ジョーに長ったらしいんだよねってそろそろ怒られそうだけど、もう少しだけ。

ショーの感想も書きたいけど、楽しかったーーーという気持ちしか残っていない…楽しくて最高なHOLIDAYでした。

そんな記憶消失状態でも、一つどうしても今の気持ちのまま書き残しておきたいことがあって。『FROZEN HOLIDAY』のなかで、咲さんが雪組の組子を見つめるという時間が何度かある。その時に退団会見で仰られていた 「雪組のみんなとの何気ない日常に、喜びを感じます」というお言葉をいつも思い出します。本当にお優しい。雪組生を見つめる眼差しも、客席中を見渡す眼差しも愛に溢れていて、トップスターとしてこの雪の舞台を愛してくださっているということが伝わってくる。そんな咲さんがトップスターとしていてくださって、雪組ファンとして感謝の気持ちでいっぱいです。

おわり

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