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内紛の季節に

あっちもこっちも内紛ですね。かく言う私も、図らずも内紛の1つの当事者となってしまってるのでエラそうな事は言えないのですが、あまりに紛争が多いので今日は思うところを。

結論から先に言うと、同朋同士の争いは最小限に、です。我々右派にとっては、①リベラルを(リベラルというだけで)敵視すべきではない。②右派内でのケンカは集団戦に持ち込まずに、極力、当事者個人間のケンカに収めるべき、③(極端なことを言えば)パヨとの衝突も、不必要に分断を押し広げるよりも、必要最小限の批判と論戦に留めた方が「国力」の面から望ましいし消耗戦は得策ではないという趣旨です。

と、その前に。まずは保守、右翼、リベラル、左翼、等々の区分のお話から。

■ 「保守」「リベラル」とは何か

最もオーソドックスな分類が以下でしょう。

【保守】旧来の風習・伝統を重んじ、それを保存しようとすること。
【リベラル】個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的。

これ以外にも多様な定義がありますので、もし「自分のと違う!」と思われる方がおられたなら、筆者はこう考えてるんですよ~という意味で了解ください。続く内容についても同様で、これが正しい!と押し付けるつもりはなく、私の個人的な考えを自己紹介的にご披露するものとご理解くださいね。

↓1分でわかる「リベラル」の解説

動画ではこう言っています。「日本ではリベラルというのは社民党とか共産党とか左翼的なニュアンスがあるが、本当のリベラルはそういうことではない。リベラルの言葉の意味は「自由」ですが、その他に「寛容」という意味がある。いろんな価値観のそれぞれを大事にする、そして自分の考えに固執せずに寛容に受け入れてゆく。いろんな考え方、生き方を大事にしようじゃないかという考え方」。常識レベルで、我々保守も備えていますよね。

つまり ”本来の” リベラルは極左とは全く違うもので、むしろ真逆です。保守と本来的なリベラルは必ずしも反目はしません。従来のやり方を一気に土台から改変する革命(および革命を思想的に下支えする思想)や、個人の自由を抑圧する全体主義を嫌い、常識の範囲で「言論の自由」や「人権」を尊ぶ「寛容」な保守層はザラに居るものですし、また左派の中でも極左全体主義の抑圧を嫌う者は多数おられます。つまりリベラリズムは、もともと右派と左派を分けるものではないのです。

*私の場合は「リベラル」「左翼」「サヨク」「パヨク」の4つをそれぞれ使い分けています。

上の動画で言っているようにリベラルは左翼とは違うのですが、日本ではサヨクがリベラルを自称してきたために定義が乱れています。これが混乱の原因の1つ。

ネトウヨと呼ばれがちな筆者は、自分では保守を自認していますが、表現の自由をはじめ個人の自由の束縛は、強いるのも強いられるのもどちらも嫌いです。したがって左翼全体主義も右翼全体主義もどちらも嫌いです。愛国心は持っていますが国粋主義者ではないし、エスニシティーは大事にしたいですが民族主義者ではないです。どこが左派と明瞭に違う点かというと、皇室を重視し靖国神社を崇敬する点でしょうか。全般的に国益を損なう急進的左派イデオロジストが私の敵です。

保守言論人の中では「リベラル保守」を宣言する中島岳志氏をはじめ、岩田温先生も「リベラル保守」を自認されています。岩田先生の魅力は紙幅の関係で割愛しますが、最も常識的かつニュートラルな学者であるにもかかわらず、学者の世界では極右と見做され、一緒に飲んだ相手から「一緒に飲んだと絶対に言わないで下さいね」など言われなければならない、腹立たしくも呆れた状況があります。学者の世界の偏りは想像を絶するものがあります。センターラインが大きく左に寄っているのですね。

■ 今は左翼も右翼もない

上の1分動画では「今は左翼も右翼もない」と言っていて、左右の識別は日常的には未だ便宜上使われてはいるけど、もうほとんど意味を成さなくなっているという指摘にも同感です。というのは、今日我々の目前に現れるテーマは多岐にわたっていて、右派内だけでも憲法、皇位継承、歴史認識、慰安婦・南京、気候変動と環境政策、ウイグルに、あいトリやコロナとワクチン等々・・・と様々で、右派内だけでも全問一致などまず有り得ないことです。
これらの各テーマにつき、ブレークダウンや方法論に至っては更に意見は割れるでしょうしそれで当然です。全問一致なら、かえって誰かに盲従して受け売りしてないか?と疑ってしまいます。

例えば、リベラルの権化のような宮台真司氏が(右翼軍事クーデターの)226事件を絶賛したり戦時慰安婦を肯定したり、野党の中にも改憲論者はいるし、立民の枝野氏が「保守」を自認していたり・・・。旧民主党の中にも北神圭朗先生など、聡明でほとんど保守と言えそうな方もいらっしゃいます。

重要な点は、個々のテーマでは右派もいわゆる左派と共闘可能な部分が多々あるということです。中でも「反共」であれば最も広く保守・リベが連携できる分野ではないでしょうか。

■ 左派の分裂

昨今ではアメリカの#ウォークアウェイ運動に象徴されるように左派内に変化が生じており、これは従来左派に位置していた者たちが「リベラルと民主党から立ち去ろう!」という運動で、ブランドン・ストラカというニューヨークのゲイの美容師が、自分は嫌悪に満ちたリベラルと民主党を支持することは出来ないため立ち去ることにしたという内容の動画をYouTubeで発表したのが発端です。

かつて自分はリベラルだった、という言葉で始まるビデオで、ストラカは人種・性的指向・性別に基づく差別や独裁的思想、言論弾圧を拒絶するために昔リベラルになったが、今では、それとまったく同じ理由からリベラルと民主党から立ち去るのだと説明しています。日本でいえば松浦大悟さんがこのポジションと言えるのではないか。松浦さんはリベラルですが、リベラリズムの本質を失って偏狭・極端化した自称 ”リベラル” に愛想をつかし、批判する側に立っています。こういった常識的なリベラルはクラシカル・リベラルと呼ばれ、松浦大悟さん以外にも筑波大の掛谷教授が該当します。上念司氏も保守というよりも、同カテゴリーのように私には見えてます。

山口弁護団の大西先生もクラシカル・リベといえそうです。たとえば以下のような記述。

「そのような風潮の全てが誤りというわけではなく、過去において、そして現在いまだに根強い特に女性の性被害に対する政治、司法、そして社会の無理解、認識不足に苦しむ被害者への配慮がより一層図られるべきことは当然であるが、他方において、性被害を主張する供述の信用性を客観的に検討すること自体が許されないかのごとき性犯罪・性被害をめぐる行き過ぎたポリティカル・コレクトネス(政治的に望ましいとして社会的に要求される「公正さ」)の風潮は、加害者とされる者のえん罪被害の温床ともなりかねず、このことは近年、痴漢えん罪事案の続出が社会問題化した現象を見ても明らかである。」

絶妙なバランスですね。大西弁護士が批判しているのはexcessivity--つまり行き過ぎであって、ポリコレそのものが悪いと言っているわけではないのです。過ぎたるは及ばざるが如しということ。その他にも我々保守が大好きな北村晴男先生はリベラル保守にあたると思われます。法曹には左翼イデオロジストや悪徳弁護士、極左活動家もどきは居ても国粋主義者や民族主義者はまず居ないでしょう。なぜなら、法倫理がリベラリズムに基づいて構築されているからです。

かように一概に左派といっても一枚岩ではありません。これが複雑さ、その2。

■ ポリティカル・コレクトネス

上のような大西先生の感覚を強く支持する私ですが、ポリコレとは日本に昔から存在する本音と建前の「建前」とおなじですから、建前がまったくない本音だらけの世界など怖すぎる。政治哲学者のハンナ・アレントは「仮面」という言い方で節度ある「建前」を肯定しています。本音が情動だとすれば建前は理性です。理性も情動もどちらも重要で、いづれに偏っても不具合が起きるものだと考えます。繰り返しになりますが、現代の問題はポリコレの「行き過ぎ」なのです。

情動のみだと危ないし理性で抑圧しすぎてもヤバい。イデオロギーで思考停止するのではなく、その時々で変わる状況に合わせて、常に緊張感を持ってバランスを保持するのが保守の真髄といえるかもしれません。

■ 日本の今日のねじれ

戦後の日本は近年まで、かつてゴルバチョフに「最も成功した社会主義国」と呼ばれたように、富の再配分が比較的公平に行われ、1億総中流といわれた時代が長く続きました。また、知識人の多くはリベラルが占めてきた。ところが、そんな日本でも米国同様に左派の暴走がはじまった。「言論の自由」や「人権」を隠れ蓑に、不当なことをまかり通そうとする一群や、被害者カードを権力として用いたり、「男女平等」を掲げながらえこひいき政策を推進したり。極端な施策は主に学者が先導するものですが、今日の極左学者は旧来のマルクス主義の系譜ではなく、(現代思想の)ポストモダン系のフェミニズムやカルチュラル・スタディーズの系統が多くを占めます。ポストモダンはもともとマルクス主義に対する批判理論として登場したものですが、今日では古典左翼よりも一層過激な左旋回をみせています。

そのような時期に満を持して安倍首相が登場したのですが、「戦後レジームからの脱却」とは、これまでのあり方を抜本的に変革しようとするものであり、革新性が強いスローガンでした。つまり安倍さん率いる右派が革新で、左派が実質的な守旧派となるという捻じれが生じた。複雑さ、その3です。

■ 蹄鉄理論(ていてつりろん)

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上記は、政治的な立ち位置を示す場合にしばしば使われる図ですが、この図が意味するところは、通常は正反対だとみなされがちな極右と極左は、馬の蹄鉄の先のように類似性があること。私の感覚では開きはもっと狭くて両者はより近い位置関係にあります。一例としてはかつて三島由紀夫が東大全共闘に「諸君が”天皇”と一言言ってくれさえすれば(共闘が可能)」と言ったように、極右と極左はパターンが似ていて互換性があるので、ひょんな切欠で転向が起こりやすい。実際に極左⇔極右間の転向事例は珍しいものではありません。

 この図が示す別の重要なことがらは、右vs左ではなく上vs下の図式で見ると、leftもrightも常識人という括りでは同じで、対極にあるのは極右・極左という事が分かります。ちなみに私の場合は右派なので(全体主義的な側面を除けば)far right(極右)にも賛同できる部分はありますが、far left(極左)とは絶対ムリ。far left(極左)とその周辺の頭のわるいパヨクはムリですが、本来のリベラルを含む上部のleftistは論考ベースで是々非々となります。

極右・極左がともに陥りがちなのが全体主義です。政治哲学者のハンナ・アレントによれば、全体主義とは特定の思想ではなく「運動」とのこと。全体主義は次々と敵を探して攻撃を続けることで求心力を保つもので、人々の「怒り」や「不安」に寄生して増殖するが、明確な敵を喪失すると倒れる闘争集団です。末期に至るほど手当り次第に「敵」を攻撃するようになります。このような集団は、初めのうちは無力な1個人の怒りの代弁者に見えますが、構成員としての個人は所詮「数」の1つに過ぎないので、個々人の個別性は重視されず、徐々に個人の自由は抑圧されてゆきます。

近年では、極端な発想の人たちが幅を利かせてきたために、本来の穏健リベラルや保守の常識人が闘争に駆り出されるという、困った状況も発生しています。

■ 是非と好悪について

政治思想で分類すれば以上のようになりますが、そうはいっても、いくら意見が同じでもウマが合わない人はいるもので、それは仕方のないこと。逆もまた真なりで政治信条が合わなくても人柄に魅力のある人や、敵ながら天晴の人もいます。岩田温先生がウーマン村本さんを好きなのは、(蹄鉄理論ではなく)人の好みの問題でしょうし、恋愛だってそうですよね。なんであんな人がいいの?といくら周りが言おうと好きなものは好きだし、逆にいくら理想的な人でもタイプじゃなければパスです。なぜ好きか(または嫌いか)を言葉で表すのはそう容易ではない。頭で考えることではなく感覚的なものだからです。趣味の領域まで政治的なものでムリはしたくないものです。それでも、好悪と是非の混同は避けたいですね。虫の好かない人であっても、倫理道徳上の害がなく、国益のために働いている人であれば放っておけばいいと思っています。

■ 結論

つまり何が言いたいかというと、リベラルをリベラルというだけで敵視するのは誤りであり、明確な「反日」でない限りむやみに敵視するのは余計な分断を増やすだけで日本の為にならないということ。総合力を削ぐことになります。議論なら誰とでも自由にすれば良いし、対話が可能な相手ならそれだけでも常識人の部類に入るでしょう。有益な異論・反論がなければ止揚の機会は得られませんから、成長が止まり、民主主義も劣化してゆきます。

ただし悪事は別です。党派にかかわらず嘘や盗み、卑怯なふるまいは左右を問わずダメなものはダメ。情実を優先させたり、「フォロワーがカブってるから~」などと、あからさまな悪事を見て見ぬフリをするような事をまかり通していると、そんな集団は自ずと内部から腐敗してゆくでしょう。それ以外にも、憂さ晴らしが目的でふっかけて来るクズは左右を問わずネットには居るもので、延々相手しても労力の無駄ですし、何の建設性もないですよね。

もしも紛争を見かけたら・・・「言い方が悪い」とか「ムカつく」「許せない」とかの話はザラにあることですから、当人同士がケンカしたければ勝手にやってれば良いこと。侮辱されたら怒る権利は誰にでもあるし、そういった怒りも個人的なものとして尊重されてしかるべきと思っています。ただし外野としては、よほど白黒が明白な場合でない限り、状況を集団対集団にするような参戦には慎重であったほうが良いし、ろくに議論もできない者が「数」で相手の口を塞ぎBANに持ってゆくなど、もってのほかの愚行です。自国の言論空間を自分で狭める愚か者のすることでしょう。

「悪事」以外の、単なる意見の相違で相手の全人格を叩き潰そうとするのは不毛ですし、違いを探し出して糾弾合戦に腐心するよりも、より広義に、公約数を見つけ出して拡大するほうが、よほど国益に叶うでしょうし、気分も良いものです。

紛争は必要最小限に。それが私の言いたいことです。ただしくどいですが、悪事は別だと思っています。