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清水潔が陥ったトラップ

- 清水潔著『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』を読んで -

清水潔氏といえば伊藤詩織氏を週刊新潮に繋いだフィクサーだ。氏はまた、桶川ストーカー事件の犯人を警察よりも先に割ったことでも知られる。新潮社の雑誌FOCUSの記者を経て、同誌休刊に伴い2001年に氏は日テレに移った。NNNドキュメント'15「南京事件〜兵士達の遺言」は左右に激論を巻き起こして大きな話題となった。著作も多く、今や「一流」のジャーナリストだ。

■ 伊藤事件における清水潔氏の位置づけ

動画ではご本人が、このように表明している。

2015年7月下旬(逮捕中止の約一月後)に個人的なルートで伊藤詩織さんが清水を訪ねた
週刊新潮が情報を聞きつけ取材を希望して清水に照会した。そこで清水氏が新潮に伊藤を紹介

BBの次の箇所、「「トップ」というのは「刑事部長」を指すのではないか、という情報を私があるジャーナリストから聞いたのは二〇一五年の秋頃のことだった(P188)」、あるジャーナリストとは清水のセンが濃い。2017年の司法記者クラブでの初会見を前に、固い服装を勧めて詩織さんに「いやだよー」と拒否られたのも清水と思われる。(因みに伊藤氏はシャツの第二ボタンまで開けて会見に臨み世間のネガ評価を受け、それをまた恨みに日本社会への攻撃に代えたが、後にジャケット姿になるくらいなら最初から言うこと聞いとれよ・・・と思うのは筆者だけ?)

ともかく、2015年からこの頃にかけて清水潔は裏方として精力的に伊藤さんのプロデュースに励んでいたのは確かだろう。ある時、パタリと発信を止めてしまうまでは。

■ 桶川ストーカー事件の概要

桶川ストーカー事件
桶川ストーカー殺人事件とは、当時女子大学生だった猪野詩織さんが、元交際相手の男を中心とする犯人グループから嫌がらせ行為を受け続けた末、1999年10月26日に埼玉県桶川市のJR桶川駅前で殺害された事件。
 被害者が何度も上尾署に深刻な被害を訴えていたにも拘わらず上尾署は取り合わなかったことで、被害者は無残にも殺害されたばかりか、警察は提出されていた「告訴状」を改ざん・隠蔽した事で、後に警察の不祥事として大きく報道されることとなった。最終的に警察から3人の懲戒免職者を含む15人の処分者を出した。また一方では、被害者と遺族への報道被害が起こった事件として、報道のあり方についての参考例としても取り上げられる。本件の発生が契機となり、2000年に「ストーカー規制法」が制定された。
 写真週刊誌『FOCUS』の清水潔らが、警察よりも先に犯人を割り出し、警察の怠慢を鋭く追及した事で清水の名は一躍、世に知られることとなった。

ここで覚えておきたいことは3点。

1.被害者の猪野詩織さんは勇気をふり絞って警察に訴えたのに「よくあること」と取り合ってもらえなかった

2.当の警察は「告訴状の取り下げ」を依頼する詐欺行為をはたらき、内部では「告訴状の改ざん・隠蔽」の不祥事を起こしていた

3.大手メディアは真実を伝えず、警察の発表を鵜呑みにした報道を続けたが、清水らの尽力で全容が明らかになり「ストーカー規制法」の制定に繋がった


■ 『遺書 桶川ストーカー殺人事件の深層』

本書は、警察に先立って犯人を特定した著者本人の視点から、事件発生から犯人逮捕~警察の不祥事判明までがハラハラドキドキ、抜群のストーリーテリングで語られる。

場面の切り替えがヴィジュアル的で、まるで映像化を想定しているかのよう。TVを意識した向田邦子さんの手法を彷彿とさせる。自虐的な「三流」の頻出はくどい。だがそれも一般読者の「上級国民」への僻目と判官びいきに訴求して共感力を増している。下積みで虐げられる者が、ふんぞり返った「一流」に逆襲するストーリーが我々庶民は大好きなのだ。

”その場から視線を引きはがすように”、”背中を引っ張るゴムのベルトがちぎれるように”といった比喩表現もお見事。文体は平明でサスペンス調の”引き”があり、ダヴィンチ・コードばりに頁を捲りたくなる。読者をのめり込ませる軽快なテンポや感情の高ぶり・・・それらも実は緻密に計算されたものだ。

ただし、彼は物語成立のために大仰に物を言う人だ。見てきたような情景描写をする。てんぷら屋のてんぷらが揚がる音や、第三者同士の会話で表情を断定的に書くのがそれだ。”病んだ表情で言い募る和人に、佳織は必死に説得を続けた”といった描写には「見たんか」と言いたくなる。登場人物の「佳織」という女性についても実在が疑わしい。だいたい亡き被害者そっくりの女性がサイコで凶悪な加害者に入れ込んで同情するなど、俄には信じ難いではないか。これは加害者像を立体的に造形するための狂言回しではないのか。加害者視点を設けるために中途半端に登場させたものと推察する。(でもノンフィクションなんだよねぇ・・・BBと同じく・・・)

■ 著者・清水潔氏の性格

清水の人柄は用心深く周到で、悔しさをバネに実力で権威を見返そうという粘り強さが本書から垣間見える。自虐的な「三流」と共に、それとの対照で「記者クラブ」「一流」は何度登場するだろう、ざっと数えても10回は下らない。「上流」に対する清水の屈折した感情や「権力」に対する潜在的な敵意が透けて見える。彼にとって権力とは「揉み消す」側である。そして被害者は「泣かされる」もの。

もしも「一流」なので冤罪も可という発想ならば「正義」には縁遠く、ブルジョワジー殲滅を狙う極左暴力革命思想と変わらなくなるし、ファクトを軽視するジャーナリストはもはやジャーナリストではない。活動家かまたはイデオロジストだ。

清水本人はプロレタリア:ブルジョアのフレームが固定した古典的左翼マインドの持ち主と伺われるが、観念左翼ではなく下積みの苦労体験に裏打ちされているようだ。この点では松本清張の来歴とカブるものがあって、両者は低学歴の苦労人で、社会構造に対する懐疑の眼差しや庶民のくやしさ、やりきれなさへの共感が通底している。

大竹の番組で言っているように清水は政治と切り離して伊藤を「性被害の事件」として扱おうとしている。このことからも清水潔の伊藤擁護のあり方は左翼勢力への加担というよりも桶川の投影と、それに伴う私的な贖罪意識に由来すると見た方が正しいのではないか。あるいは桶川の成功体験が裏目に出たと言えるのかもしれない。清水氏に生じた油断か、あるいは微かな「驕り」か?自身が既に「一流」となった事に無自覚で、「三流」=「被害者」の意識のままに。

■ 清水潔の陥ったトラップ

本書によれば、清水のFOCUSは一度とんでもないデマを流してしまった。警察の詭弁を真に受けて「(ストーカー集団が)ニセ刑事まで送り込み、被害者の告訴取り下げを唆した」と打ってしまったのだ。実態は事件を揉み消したい警察が被害者宅まで押しかけ、「告訴状を取り下げてほしい」「またいつでも告訴はできるから」と被害者を騙そうとしたもの。いつでも告訴できるというのは明らかな嘘であり、一たび取り下げられたら同一案件では二度と告訴できないという。

清水本人は後々、心境をこのように吐露している。「その筋書きに、私はまんまとはまったのである。詩織さんが必死に言い遺していった事実をひとつ、ぶち壊したのである。そんな記事を出した私は、自分が間抜けだと喧伝したのも同然だった」。

清水が事件解明を主導したのは間違いない。上尾署と埼玉県警が「告訴取り下げ」を隠蔽するために、事件の中核である小松和人をマークしなかったという読みも正しいだろう。それでもFOCUSの一度の誤報は禍根を残した。なぜならそれは、詩織さんの恨みを晴らそうとした清水が、あろうことか彼女の恨みの矛先の一つ「警察」の片棒を担いだことになるからだ。清水は別の箇所でこうも言った。「はめられたまま嘘を垂れ流しているなんて、記者としてどうしようもなく不愉快だった」。警察の悪事を暴くはずの自分が手先となってしまうとはさぞ忸怩たる思いであろう。しかし伊藤詩織事件では・・・。

■ 結論

清水さん!昔は権威を叩けば左翼の「正義」が全うできた。でも今はもっと複雑だ。それに情報ビッグバン以降は我々ネット民がかつての週刊誌の--大手メディア報道の欺瞞を暴くーー役割に入れ代わった。あなた方はすでに暴かれる側なのだ!

清水潔は、伊藤事件で桶川よりも更に重大なヘマをやらかした。桶川との符合に目が眩み、先入観が邪魔をして、安易に自称被害者に加担してしまったのだ。

「恥を忍んで警察に相談に行き、根掘り葉掘りプライバシーを聞かれただけで「事件にならない」と言い放たれ、それでもxxxxxxと戦うことを心に決めて、告訴に踏み切った詩織さん。報復も怖かっただろうし、嫌な思いをすることも分かっていただろう。」(桶川P148)

文中のxxxxxxには「ストーカー達の嫌がらせ」が入る。だが「国家権力」に入れ替えれば、そのまま伊藤-山口事件の出来上がり!これが投影でなくて何だと言うのか。

桶川での清水の苦い経験は桶川事件の取材で最愛のペット、ハムスターの「のすけ」の死に目に逢えなかったことと共に、清水の胸の内に澱(おり)のように沈殿したのだろう。「一流」「記者クラブ」への屈折した思いや、「警察」に対する潜在的な不信感が、詩織という名の偶然の一致と相俟って強固な先入観となり、「勇気を出して被害を訴えたのに、警察に揉み消された憐れな被害者、詩織さん」という像を清水の胸に刻印した。清水はけっこう験を担ぐ人だ。そうして辣腕ジャーナリストの目を曇らせ、「逮捕状の揉み消し」という架空の大きな構図に気をとられて、眼下の高輪署の不祥事には目を瞑ってしまった。それが筆者の見立てだ。

本人はすでに見当違いに気が付いているだろう。(カムフラージュを除けば)ある時期からパタリと伊藤関連ツイートが途絶えたのがその事を物語る。何が切欠なのかは不明だが、BBには清水氏と似た筆致が随所に見受けられるし、真偽不明の空港の逮捕中止劇も清水の発案が疑われる。空港シーンをはじめ、「言い放ち」という語法など、伊藤事件解明の過程では「強姦”致傷”」の大袈裟な描写が誰の入れ知恵だったか殊に明らかになってほしいポイントだ。

清水の思い込みは、たとえ源流が「贖罪」や「正義感」であっても、ベクトルを誤って全世界に広がるデマの端緒を作ったのだから、桶川の勘違いよりも深刻だ。伊藤事件では山口氏の父親は無念の内に他界しているし、当人も気弱であったら命を絶っても不思議ではないほど過酷な情況に置かれた。清水の目の黒いうちにキッチリ清算してもらわねばなるまい。

しかし同時に、伊藤事件には人の潜在的な恨みや悲しみに憑依して宿主を乗っ取ってしまうような側面がある。助けようとした人が軒並み加害者になってゆく。そうして周りの人を巻き込み、シナジーで運命共同体を形成してゆくのだ。

重ねて、伊藤事件での清水の勘違いは容認出来るものではない。それでも清水の目が曇ったのは邪悪な反社会的勢力の動きというよりも、「人間の心」が関係するヒューマンエラーの類ではないかと、本書を手にしながらハタと考え込んでしまうのだ。清水自身が持つ人間味ゆえに自身の中にあったトラップに陥ったのではないかと。

「のすけ」が亡くなったのは事件の年の1999年である。清水氏のTwitterアカウントはいま@NOSUKE0607である。6月7日が命日なのだろうか。事件から20年余を経て、今なお「のすけ」を悼む清水氏を私は憎み切ることができない。