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ドリー氏の稚拙な論理

「女性は嘘をつく」発言を契機に、足立区の白石正輝議員の区議会での発言とともに、またまた杉田水脈議員に対する筋違いのバッシングが再燃している。

ライターのドリー氏もバッシングに参加だ。Amazonサイトの書評を切欠にデビュー作『村上春樹いじり』で脚光を浴びた氏が、今回はHarbor Business Onlineに「何がなんでも少数派の人権を踏みにじらずにはいられない議員、「杉田水脈」の稚拙な論理」のタイトルで寄稿しており、Yahooニュースでも取り上げられてコメント欄は賑やかだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6f5fb4f43ad2df2150f53c8271bfcee297b667f0

私は以前noteで、新潮45批判を書いたが、今回はドリー氏の記事を批判的に考察してみたい。それに先立ち、まずは杉田水脈議員の「生産性」論文をかんたんに要約してみる。杉田氏の論点はこういうことだ。(全文は末尾に転載)

杉田議員の論旨を振り返る

2018年に新潮45に掲載された杉田氏の論旨をサマライズすると、こうなる。

①リベラルメディアによる「LGBT」報道が多すぎる
②日本社会は歴史的は欧米の如き(LGBT)迫害の歴史は存在しない
③(文化背景の差異を考慮せずに)海外と単純比較するのは意味がない
④Tが障害であるのに対してLGBは「嗜好」であり、個々の「生きづらさ」に行政が税金投入する大義名分はあるか?

「生産性」というショッキングなワーディングを別とすれば、一つの見解として論理立っており常識的な見解である。LGBTなり死刑制度なり、外国の事例をそのまま日本に導入しようという風潮には私も杉田氏と同様に懸念を持つものだ。諸外国には諸外国なりのバックグラウンドがあり、彼らの文化にも長所と短所がある。それが海外に長期間暮らした経験のある私の実感である。一定のローカライズ作業を経ての文化輸入ならまだしも、”欧米諸国がやっているから遅れた日本も追いつかにゃ” 的な風潮は軽薄であるばかりか、世界でも稀有の日本固有の美徳を、ガサツなモノマネで毀損することになりかねない愚かな行為である。

騒ぎから2年を経た今、振り返ると杉田氏の論旨はLGBTに留まらず、IP=アイデンティティー・ポリティクス(*1)の無碍の流入に対する警鐘であったといえるのではないか。伝統や常識を重んじ、社会の混乱を避けようとする保守政治家としての面目躍如であったともいえる。アイデンティティー・ポリティクスは今現在、本場アメリカでも激しい論争の的となっている。差別はあってはならないが、その事とIPの推進はまた別の話だ。日本の風土に照らしてIPの強化推進は、もともと無かった所に新たな差別と分断を齎す懸念が大いにあり、私は杉田議員の問題意識に共鳴する。杉田氏を批判する者は欧米のLやGへの差別がいかに熾烈なものかまずは調べてみよ。ゲイというだけで半殺しの目にも遭うのだ。ゲイを告白した10歳児が母親に射殺された事例もある。それはキリスト教の教義解釈に根差しており、一般社会において「悪徳」の感覚は未だ根深いし「差異」を以ってなす差別・イジメも熾烈である。
翻って日本ではどうか。本邦では歴史的に茶坊主や衆道も存在し、TVでオネエは人気者だ。「日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。」との杉田氏の実感は私の実感でもある。

(*1) アイデンティティー・ポリティクスとは:ジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。主に社会的不公正の犠牲になっていると主張される。

ドリー氏の論考

氏が執筆にあたって対象者の著書『なぜ私は左翼と戦うのか』『女性だからこそ解決できる慰安婦問題』等を読み込んだことについては、知ろうともせずに思い込みとイメージでバッシングのためのバッシングに走る輩があまりに多いことを思うと、ひとまず一応の敬意を表したい。

まずはタイトルである。「何がなんでも少数派の人権を踏みにじらずにはいられない議員」からしてドリーの氏の錯誤である。杉田議員は、上の要約のとおり、少数者を差別などしていないからだ。むしろ「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。」と述べるフラットな感覚の持ち主であり、尚且つ「T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべき」とも述べおられる。

「つまり杉田氏は「LGBTを差別しません」と言いながら同時に「LGBTを肯定的に語るのは行き過ぎだ」と主張する。この主張が、如何に矛盾しているか。誰がどう見ても分かるだろう。」

いえ、分かりません(笑)もともとLGBTに偏見を持たない杉田氏は「肯定的に語る」のが行き過ぎだとは何処を探しても言っておらず、強いて言えば「積極的に拡大するものでもないだろう」との趣旨であり、行政としての税金投入の可否を問うているのだから。「差別」と「税金の使途」は別の次元の問題だ。

自ら論理破綻に陥る。杉田水脈、排外主義ワンダーランド、反知性ジェットコースターである。

ちょ、待てよ(笑)自らの読解力の不足を棚に上げ、相手を醜悪な「敵」と見立てる論法はネットでお馴染みだが、これは「ストローマン手法」と呼ばれる。人の生きづらさは千差万別なのだ。ドリー氏においては、翌号の小川榮太郎氏の論考「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」を読まれたい。

杉田氏は、差別に反対するようなポーズを取りながら、その実、差別に加担している。何故なら「LGBTは隅に隠れて人目に付かない限り、認める」というのが、既に「差別」だからである。このように巧妙に差別レトリックを用いて杉田氏は、自分の理解の及ばない性的少数者の排除を正当化する。それこそが彼女の狡猾な差別レトリックなのである。

「LGBTは隅に隠れて人目に付かない限り、認める」は悪意ある拡大解釈である。重ねて言うが筆者(杉田氏)の言いたいことは、「LGBTはもてはやすものでも、積極的に拡大するものではない」「少子化であれば税金を投入の大義名分はあるが、LGBには有るのか?」であろう。レトリックでも何でもなく、ドリー氏の汚らしい発想だ。自分と一緒にしちゃいかん。

このように巧妙に仕掛けた罠により、杉田氏は、巧妙に、自分の想像できない少数者の排斥を合理化する。

「巧妙」の重複はライタースキルの乏しさだが、LGBTに税金で助成しないとなれば、それが「少数者の排除」になるのだろうか。さすればフェティシズム含めて世の中にはありとあらゆる「少数者」が存在するのであり、その悉くに税金で手当てしなければならないことになりはしまいか。それが議員が論文末尾で挙げた欧米の性の混乱状況であろう。ドリー氏のロジックは単なるワガママにしか聞こえない。

そして筆者は突然、「つーか」と論調を変えて、慰安婦問題に突入するのである。

・・・が、ここへきて実は、あまり批判されないのが慰安婦問題である。つーか、これこそがまさに杉田氏の核心であり、杉田氏の思想は全て「慰安婦問題」から始まっているのだと言っても過言ではない。

いったい何処から何を根拠に「杉田氏の思想(思想!!)は全て慰安婦問題から始まっている」などと大言を吐くのだろう?過言ではない?いや、ガッツリ過言です(笑)杉田氏の評伝でも書かれるおつもりか。しかも自称慰安婦の李容洙さんの証言の、「日本兵に電気ショックで攻められた」とか「足をズタズタに切り裂かれた」とかの発言には、不勉強なのか不都合なのか、一切触れないという(笑)

そこから延々と中途半端に慰安婦が続き、日本の売春に対する政策の誤りと熱弁をふるい、おやおや、杉田氏の話はどこへ行った(笑)華麗なるフィナーレはこうだ。

このように底抜けの無知をさらけ出す国会議員、杉田水脈さん
 一部ネットに存在する歴史修正主義の温床で得ただけのような知識でものを語る杉田水脈が現職の国家議員である事が、日本を貶めている最大の元凶であり、日本の恥である。
 このような無知蒙昧な人間を増長させてしまったのは我々日本人の責任とも言える。日本人の一人として改めて反省したい。

大言壮語という一語しか浮かばない。自身の弱点を相手に見立てるのがパラノイアという精神疾患の特徴と聞くが、己を振り返ってみられては如何かと思う。ライターさんはレフトサイドに秋波を送ってる?こちらも下衆の勘ぐりで恐縮だが、著書を一冊上梓したくらいでは、しがないライターさんは食えないものね。

結論

例えば石戸論氏の百田批判であれば、対象の内奥にまで踏み込み、内在的に批判するような洞察力があって異論としても優れたものだ。保守の側からしても、批判者がどのような目で対象を見ているのかを知るよすがとなる。

ドリー氏の場合は石戸氏のように(たとえ自分が嫌いなものであっても)好悪は一旦脇に置いて、まずは相手の論理を理解してみようという態度ではなく、初めから批判してやろう、おかしな点を見つけてやろうというバイアスで読んでいるから失点探しの揚げ足取り、しかもすさまじい誤読になるのではないか。これでは著書を読み込む意味がないし時間の無駄です。

杉田議員に対して真正面から反論するのであれば、LGBとTを区別すべきかどうか、LGBは果たして嗜好かそれとも指向か、LGBT差別は実際に存在するか、税金投下の大義名分はあるか・・・等々の複数の論点が想起されるが、ドリー氏の文章は何ら具体性を伴わず空語を羅列するのみ。議論の発展にも寄与しない。表面上は「論」を装った悪口にすぎない。
ここにあるのは正当な批判精神ではなく、ライターとして功名に与ろうとするさもしい根性である。水に落ちた犬を便乗で叩きたがるパヨクはザラにいるが、ボスのイジメに無批判で加担するスネ夫丸出しである。そう言われなくなければ、自分の頭で考えてしっかり批判してみなさい!

ドリー氏の論考が稚拙であることよりも、これを取り上げたHBとYahooニュースを問題視すべきだろう。

「LGBT」支援の度が過ぎる』 
                  『新潮45』2018年8月号 杉田水脈

この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるのではないでしょうか。
 朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをえません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。
 最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
 どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
 リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。
 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 LGBとTを一緒にするな

 ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
 一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
 朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
 最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
 実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。
 トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
 最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
 オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。
 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります
 「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。