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異質さがもたらすもの ~ 御庫裏

 黄昏の頃、その客人は来店した。
 
 もうこんな時間なのか、と気怠そうに振り子を揺らす柱時計を見て思う。随分と日が延びてきた。あまり冬らしくなかった冬が終わり、次にやって来た春も駆け足で過ぎ去ろうとしている。
 
 楚楚とした空気感を纏わせ、その女性は窓際のカウンター席に静かに着いた。切り揃えられた前髪がどこか古風な日本人形を連想させる。喫茶するのはレモングラスのお茶。温和な表情の内側で、次は何を企画しようか、きっと考えている。
 
 ヤノさん。御庫裏おくり
 
 もともとヤノさんはグラフィックを中心としたデザイナーとして生計を立てていた。その傍ら趣味で様々なイベントを企画する活動も行っていた。そんな日々の中、イベントをきっかけにDJとして活動していた男性と出会う。この男性、実は浄土宗の僧侶であった。
 やがて二人は結ばれ、ヤノさんは御庫裏となる。御庫裏とは僧侶の妻の呼び名である。
 
 谷性寺。
 ヤノさんの嫁ぎ先。少しばかり他とは違う特徴を持つ寺院である。先代の住職が尺八奏者のミュージシャンであったこともあり、以前より定期的に音楽イベントを開催していた。ただ、一昔前の一般的な認識からすると寺院でイベントを開催する、それもわりと攻めた内容の音楽イベントを開催することに対して眉を顰める人も少なからずいたようである。それでもそういった活動を止めることはなかった。
 
 そんな環境で御庫裏としての生活が始まった。
 
 それまでデザイナーとして自由気ままな生活を送ってきた女性がある日を境に御庫裏となる。宗教観や歴史、厳格さといったような、寺院からイメージする重いキーワードに少なからず葛藤し躊躇したのではないだろうか。椎名林檎が「将来僧になって結婚してほしい」と何かで歌っていたが、きっとそんな軽いノリのものではないだろう。それでもヤノさんはそんな新しい生活に飛び込む決心をした。
 最初は慣れないことばかりで戸惑うことも多々あった。しかし月日が過ぎ、日常に馴染んでくると定期的にイベントを開催する寺院という環境がヤノさんの中に燻っていたデザイナーとしての才能とイベント好きという本能を呼び起こすことになる。
 
 以降、食品や雑貨などの生産者が集って販売する市場、いわゆるマルシェを寺院内でスタートさせ好評を得るとその手腕を生かして町規模のマルシェイベントも企画運営することとなり4年間を勤め上げる。しかしその後世界中を襲ったコロナ騒動により人と人との触れ合いが希薄になるとイベント自体が世の中から姿を消していった。それでも情熱まで冷めてしまったわけではなく、騒動が落ち着き始めると友引の日曜日に
TOMOBIKI SUNDAY
と題されたマルシェを展開し復活を果たす。
 更にはもともと開催されていた音楽イベントをリニューアルさせ、上映会やワークショップなど多方面の文化交流を目的としたイベントも時折開催している。
 
 つまりヤノさんは寺院で開催される縁日をデザインし直したわけである。
 
 何も分からずお寺に嫁いできて、と以前ヤノさんが語ったことがある。そこがイベントを開催するお寺で、でもあまり理解してもらえないこともあって、それでも嫁いできたこの町が好きになって、お寺が好きになって、イベントが好きで、だから地域の人たちが笑顔で気軽に立ち寄れて、時には悩みの解決の助けになって、そんな場所になれたら嬉しい、と。
 
 喫茶を終え、ヤノさんは楚楚とした所作で店を後にした。まっすぐ見据えた視線の先には人々を楽しませる新しい企画が映っているのかもしれない。
 
 真偽のほどは確かではないが、昔、何かで読んだことがある。悟りを開いた仏陀はそれを人々に伝えようとしたがなかなか話を聞こうとする人がいない。そこで賭博場を開き人を集めてから悟りについて徐々に話をしていった。だから今でも賭博場でやり取りされる金銭のことを寺銭と呼ぶ、と。
 時代や文化を超え、カタチも変えて、ひょっとしたら仏陀の意思は友引の日曜日に受け継がれているのかもしれない。もしそうであるならば、それは未知の世界に思い切って飛び込み、それでも自分らしさを表現しようとした一人の女性が歴史ある厳格な宗教観に受け入れられた瞬間だったのだろう。
 今晩は濁り酒でも飲もうか。仏陀が修行中に村娘のスジャータから布施として受けたミルク粥の話はそれなりに有名だが、ビジュアルがなんとなく似ている。江戸時代が始まる頃は基本的に酒は濁っていた。だがそこに灰が混入するというアクシデントを経てその化学反応により透明な酒が誕生したといわれている。異質なものが加わることによって、それまで以上に受け入れられ、愛されていくものは実際にはいろいろと存在するようである。
 
 
 
 
 
本日のお客様
 
ヤノさん
https://www.kokushoji.com/

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