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なぜ僕が「お金のために動画を作る」ことに若干の抵抗を感じるのか。

こんにちは。山本 輔です。

なんだかんだとバタバタ忙しい毎日を送っています。
コロナ禍になってからも、映像・動画に関わるお仕事は変わらず続いています。これをありがたいことと受け取るべきかどうなのか…。

いや、ありがたいのですよ。こんな僕に、社会の役立たずであるこの僕にご依頼をいただけるというのはとても嬉しく思うのです。しかも、自分がやりたいことをやって、それが人の役に立っている(らしい)ことに、とても充実感を得ているのもまた事実です。

でも、確かに。
お仕事になってます。お金、身入り、という意味でも、十分な報酬をいただいていると思います。自分の技術や知識と比しては、ありがたすぎる程に。

ただ、それでも。
僕は、自分のことを棚に上げて(この言い方であってるのかな)。あえて、自分も含めて、映像・動画を作る方々に問いかけたいことがあるのです。

「映像・動画を、お金儲けのために使ってて…いいのかな?」

いや、良いんです(どっちやねん)。結論から言うと良いんです。世の中の価値を生み出している、経済の一端を担っていると言う意味で、映像・動画を作る方はちゃんと報酬をもらうべきだし、どんどん人の役に立っていくことが大事だと思うのです。

ただ、ね…。
僕はその中で、どうしてもこの経済機構の中で、映像という「メディア」のおける立ち位置として「お金を稼ぐ道具」と定義すると非常に「危険だな」と感じる部分があるのです。

(この議論は、新聞が出来上がったとき、放送業界が立ち上がったときにも議論されたことだということは重々承知の上で)

お金、大事です。
お金をいただくということは、誰かの役に立ったということです。
特に、誰か(クライアント)の問題解決となり、その方が「経済的に得をする」ことができた(売上が上がった/顧客が見つかった)時にこそ、「動画というツール」がなし得た役割分のお金をいただくことができる、と認識しています。

でも、ちょっと待って。
ここって、怖いんだ。

例えば、街の看板。
どんどん、人目につくように、派手になっていきます。
文字も大きく、色もどぎつく…そうでなかったとしても、結局は「人に見てもらうように」工夫を凝らします。

例えば。Web広告。
スキップされないように。コンバージョンを稼げるように。
様々な創意工夫をして、やっぱり「人目につくためならなんでもする」「人に見てもらってこそ正義」という方向に突き進んでいきます。

たとえ、それが「社会全体の調和」を考えたときに「自分だけが出し抜こう」という意識になり「競争」になり、どんどん「目立ったものが良いものだ。売れるものだ」という意識になり「社会を汚くしているな」「みんなを歪ませた方向に進めているな」と思ったとしても。

そう、そこに対して、製作者は「No」を言わなければいけない時があると思っているのです。


僕らは、歪んだ社会の中で、その歪みに適合して稼げる作品を作りたいんじゃなくって

その歪みを是正しよう、是正しようとして
「この社会をもっとより良くしよう、より美しくしよう」として、その対価として社会からお金をもらっているんじゃなかったでしょうか。

それが最も潔い、お金のやり取りではないかと。
別にそんな高尚なことを言いたくはないけどさ。後ろ暗い形でお金もらっても使うの気がひけるじゃないか。ダサいお金のやり取りしたら、生き方がダサくなる気がするじゃないか。

そこまで崇高じゃなくとも「良いものを作り、良い目を持った人に評価され(ここ大事)、良い目を持った人たちがマジョリティになることで(ここもっと大事)、良いものが良いものと評価されることと経済が連動する社会になることを夢見て」作っているのです。

だから、「簡単で良いから」とか「売れりゃ良いんだ」「売れるものが正解、マーケティングとはそういうものなんだ」という価値観に、どうしても疑問を感じるのです。

売れたら、確かに儲かるかもしれない。
そして、大衆の選択こそが正義かもしれない。民主主義では、特に。

でも、その大衆の目を、育むことを忘れてはいけないのではないだろうか。

万一、大衆の審美眼が腐りつつあると感じるのならば、それに合わせて腐れ落ちたクオリティのものを作る姿勢というのは、果たして是なのだろうか。




物作り屋は、世界を変えます。政治や経済とまた別のパワーで、世界を変えられます。
そのパワーをほんの少しでも意識するならば…

迎合するより、より良い社会のために、より審美眼高い人々が満足する、経済的価値を得る、喜ぶ社会を作るために、コンテンツを作った方が良いのではないだろうか。

もっときれいなものがあるよ。もっと良いコンテンツがあるよ。素敵なものを見て、もっともっと素敵なものにお金を使おう、と思える日が来るならば、作る側も、それを購入する側も、きっと気持ちよくお金のやり取りができる日が来るんじゃないかと思っているのです。

夢想論かな…でも、リアルに生きてお金もらって映像作ってご飯食べてる人間として。

やっぱり良いもの作って力いっぱい全力出して、それを認められて気持ちよくお金もらえる様になりたいし、自分自身だけじゃなく、社会もその方向に動かしていきたいと思っているんだ。


お金を稼ぐ、というのは、社会の役に立つ、ということであり、それは動画も同じ。

特に誰かを食中毒にしたり、建築法で定められたり、落下事故を起こしたりすることも無い仕事だけど、だからといって劣悪なものを安く作って良い理由にはならない。

何でもいいから「動画を作れば人の役に立つ」訳じゃ無い。
「良い」動画を作り続けることで、社会が少しづつ変わるし、人も変わるし、人同士の会話も変わるし、余裕も生まれる。

そういう動画を作らせてくれるクライアントとともに生き、みんなで幸せになるのが一番じゃないかと。そして僥倖にも、僕の周りには同じポリシーを持つクライアントが多い。

社会活動をしたいとか社会貢献をしたいとか、そんな言葉は言いたく無いんだ。ただ、自分のできることで少しでも役に立てば(それは目の前のクライアントや短期的な売上という意味でなく)、10年後、100年後の人々に何か良い影響が伝わる様な…そういう作品を作っていきたいのです。

ストリーミングに消えていくものでなく。

「売上のために動画を使うんや」「稼ぐために動画を使うんや」というクライアントさんを、そのまま真正面から否定してはいけないのだけど。
「それによって、世の中を汚してはいませんか?」「10年後、100年後まで見越して作りませんか?」「目の前の売上が必要なのはとてもわかるのですが、そこに後ろ暗さを感じるくらいの気概は持ちませんか?」と。
そうじゃなければ、僕らもその仕事にNoが言えるように…くらいはなりたいんです…でも、僕も一事務所の代表。明日のご飯のためにいろいろと手を汚すことも多いです。

僕もまだまだ視座が低いです。
でも、一緒に、もう少し視座をあげていきませんか?と思うのです。

僕の思うことはそんな感じ。


なんか長い文章を書いてしまいました。
いつもいつも暑苦しくてごめんなさい。
こんなことばかり考えて生きてます。


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