動画編集者として そして 映像講師として

※下記は山本個人の思いであり、僕が教壇に立っている学校及び運営会社とは関係ありません。

こんにちは。山本 輔です。
世間では「動画編集者」そして「映像講師」これがどうやら世の中ではブームらしい。
「動画編集で儲かる!」「動画編集者が足りない!教育しよう!もっと稼ごう!」という風潮があるようです。

そして、僕自身、様々な偶然から、この渦中にある職業「動画製作者」そして「映像講師」という仕事を主業務として行なっています。

その中で、ふと、思ったことをしたためさせてください。

僕は20年前、大学4年生の頃、全く就職する気が無く、フラフラとした生活をする中で、「脚本家募集」というコピーに釣られて入った会社がたまたま映像制作会社でした。

その頃はまだまだ映像制作に入る新卒なんて、どちらかといえば変わり者。商社や金融、公共、大学院、司法試験に入っていく同期たちを横目に見ながら、ちょっと「道を外れていく」意識がどこかに残っていた。

道を外れて、就職したいわけでも無く(いつか作家になりたいという青臭い夢を持ったまま)ただ親を安心させるためになんとなく職業についた、いつかやめればいいと心のどこかでは思っていました。なんとなく、腰掛けのような意識だったことは否めません。

ただ、それでも苛烈で労基法も存在しない様な社会(90年代)において、一日24時間労働当たり前の映像制作会社で3年務められたのには訳があります。何百本のゲームを遊んできた中学時代。週に3本は映画を見ていた高校時代。ひたすら書物と戯れた大学時代。中高大と、ゲームや映画、書籍といった膨大な作品群に触れて、それらコンテンツに対する敬意をもって「いつかその分野に入っていきたいな。自分に才能があるかどうかはわからないけど、何か役に立ちたいな」という思いがあったからです。

その頃、まさか「動画編集がブーム!」なんて時代が来るなんて、全く思ってもいません。時代を先取りして仕事を始めたわけでも、なんでもない。ただ、毎日動画を編集しながら、その端っこで天才的なディレクター、とんでもない職人たちの仕事ぶりを眺めて憧れて仕事をしていただけです。それだけでも、僕にとって幸せなことだったのです。どちらかというと、一箇所にとどまっていたら、勝手にブームの方が向こうからやってきたというイメージです。

それゆえに、またこのブームはいつか去っていくだろうな、という思いもあります。

で、本題。

動画編集ブームがやってきた中で、僕が今思うこと。

これに尽きます。ただの一個人のわがままであることは承知で、言わせてください。
ブームになって参入する人が増えて、お金になるからと大量生産がされるような時代になったからこそ。
「映像を、動画を、愛してあげて。この世の中に、なんの愛情もないコンテンツを撒き散らさないで」

今やYoutubeがあり、スマホがありデジタルサイネージがあり、あまりにも多くの露出媒体がある中で、「目を引く」「興味喚起させる」という意味で動画がビジネスニーズになっていることは否めません。

それ自体を否定する気はありません。ただ、調和は必要だし、お互いに目を引きあって町中がパチンコ屋のデコレーションの様になるのは、避けたいなとは思いますが。…それも、いっ時の喧騒だと思います。いつだって喧騒の後に、美しい文化は残るものですから。

ビジネスニーズがあり、見る人がいて、お金が動く。
当たり前ですが、そこに参入する人は増える。
学びたい人も増える。無償の学びも増える。同時に、分かり易い学びの解釈価値を提供して、お金を稼ぐ人も増える。
それは自明の理。なんら問題はないのです。

ただ、一つ、僕のわがままを言わせてもらうとすれば。

僕は映像や動画を、商材の一つとして使い捨てにしたくないよ、ただの金儲けの道具にするには「余りにももったいない」ものだよ、という意識、これをちゃんと伝えていきたいな、と思っているのです。

このブームが去った時、そして映像編集でお金が稼げなくなった時。

あなたは去りますか?
「お金稼げないからやーめた!次はIoTだ(ここに入る用語はなんでも構いません)」と。

それとも「こんな素晴らしい、楽しい映像編集という文化」をずっと続けたいですか。

僕は、続けたいのです。
そして、お金になろうがならなかろうが、それとは全く無関係に、自分の楽しい人生のために、そして先人たちへの敬意のために、その知見に対する対話のために(キューブリックはこんなことを考えていたのか、僕ならどうするかな、等々を考えることで)、僕はずっと続けていきたいし、そう考えてくれる同志を、たくさん育てていきたいし、その同志たちと会話をしながら、楽しい人生を送っていきたいのです。

アーリーリタイヤという言葉があります。
早くに「仕事という苦役」をやめて、悠々自適の生活を送るスタイル。
そのために、今ブームになっている「動画編集」を用いて、どんどん稼いで、早く(動画編集からも)リタイヤしよう、という思いを持つ方もいらっしゃるのだと思います。

僕はそこに違和感を覚えるのです。
「愛をもって作って!」「素晴らしい映像を作って!」と。
「こんな楽しいこと。やめないで。いや、辞めるなら辞めるでいいのだけど、作ったものには責任もって片付けて!散らかしたまま去るのは許さないよ!」と。
自分が金儲けで離脱するために、ゴミを撒き散らさないで!と思ってしまうのです。それ自体が古いのでしょうか…インターネット上はゴミで溢れても、所詮Google先生が淘汰してくれるから、いくらでも消費財を作っていい場所なのでしょうか…。僕はそんなモノづくり、したくないよ。

もちろん出来上がった作品のクオリティには甲乙があるでしょう。でも、クオリティ云々と、「手を抜かずに作ったか」「愛をもって作ったか」は全く別の話です。クオリティが低くても、僕は愛のある作品が世の中に溢れて欲しいのです。

僕はアーリーリタイヤしたとしても、金儲けからリタイヤしても、リタイヤした上でまた、動画や映像を作り続けていきたいです。

お金、大事です。
もちろん、お金を稼ぐことを一切否定しません。
僕もちゃんと自分の出した価値分の請求は決して値引きません。

ただ、ここでまたもう一つ。
動画を作って得たお金を、何に使うのか。
その人が得たお金を何に使おうが、勝手じゃないか、それこそプライバシーの問題だ、と言われるかもしれません。
でも、僕のわがままをもう一つ。

仮にも、ここまで動画ブームに乗ってお金を自分で得ることができたならば。
そこに至るまでの映像、音楽、文学、様々な先人たちに敬意を払って、できる限り様々な文化が彩り良く残っていくためにお金を費やしたい、と思うのは、格好をつけすぎなのでしょうか。

どうしても、僕は動画を作って得たお金…確かにありがたくも、僕自身がブームの中でなんとか、人並み程度か、それ以上には良い生活をさせてもらっています。
そして、この生活を維持するためにも。
次のブームを探すのではなく、僕は、この生活をさせてくれる様になった先人たちの文化を残していきたい。そのためにお金を使いたい、と思うのです。
僕が、オペラを歌い、舞台に立ち、楽器を弾き、モノを書き、絵を描くのにも、そこに理由があります。
彼らが文化を残してくれたから、僕が今生活できている。その文化をまた未来に残していくことで、自分自身がまた食べていく道を作ることができる、というのは、性善説過ぎる考え方なのでしょうか。

…いや、何が言いたいかというと、僕が動画編集者を見るときに、どうしても「その人が何に対してお金を使っているか」を気にしてしまうのです。どうしても、札束風呂に入る様なスタンスの方を、自分の悦楽のためだけに使うスタンスの方を、自分の老後や快適な暮らしのためだけに使うスタンスの方を、どうしても受け入れられないのです。(いやもちろん僕だって札束風呂一回くらい入ってみたいけど略)

老害、かもしれない。「最近の若い奴は」と言ってるだけかもしれない。
もちろん僕も20代の頃は、インターネットを知らない世代、旧態依然として非効率な仕組みを維持しようとする世代に噛み付いていろいろと文化を壊そうとしてきた。
あ、えーと一個だけ嘘ついた。未だに壊そうとしてます。40超えてるのに。20世紀型資本主義から労働集約型産業から会社組織から全てを破壊しようと(略)すみません話がそれました。

ただ、それでも。
僕は、お金だけのために、動画を、映像を作りたくないよ。

そして同時に、僕のできることは。

もし仮に、愛のない動画編集者、ブームに乗ってお金を稼ぐためだけに動画編集をする方がいるならば、

その様な方を諭したり文句を言ったりするのではなく、僕自らが作り出すコンテンツでねじ伏せて、「ここでは勝ち目がない」と駆逐するくらいの力を持たなければならない(今はまだ全然ないのだけどね)、とさえ思うのです。

僕にとっての動画編集は、ブームによる狂騒への便乗ではなく、僕を楽しませてくれたスピルバーグやキューブリック、ゼメキス…筒井康隆、坂本龍一…モーツァルト、芥川龍之介…菱川勢一、細金卓矢(いつまででも終わりません)たちへの愛情であり、敬意であり、いつまでも終わらない憧れの道程なのです。

彼ら偉大なる先人たちからの学んだことをきちんと作品に昇華できれば、必ずや「愛のない方」が入る余地を埋めることはできるはず、なんです。自分の才能に依らず。

僕が映像講師として伝えていることは、ずっと、これだけです。



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