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入院36日目



 消灯後、看護師さんによる点滴交換があったようだが、まったく気づかなかった。なんとなく腕を掴まれた気もしなくもないが、夢かうつつか。

 3時半に目覚めたころには、すでにルートから点滴は外されていた。もぞもぞと起き上がって本を読んでいると、看護師さんが顔を覗かせにきた。
「あ、起きてるんだ。ごめん、モニタ外れたみたいだからちょっと見して」
 …そうか、忌々しいコイツはまだついてるのか。まあ、投与後の異変を診るために着けているのだからそんな言い方をしてはいけないのだけれど。


 朝の回診では、とくに異常はみられないとのことで、その心電図モニタも外す許可が下りた。かなりトントン拍子で進んでありがたいが、ルートを外してよいかはまた確認するとのこと。

 気づけばズルズルと一週間は風呂に入れていないため、どうせ来週のリツキシマブ投与でルートの取り直しになるのであれば、ルートが濡れないようにラップでぐるぐる巻きとか"みみっちい"ことしないで、思いっきりシャワーを浴びたい。

 だが、今日はいつになく誰もが忙しそうで、そんなことで引き留めるのは気が引ける。仕方なく、ナースステーションでドライヤーを借りて、洗面台で頭を洗うことにした。
 これがかなり難しい。
 まず、洗面台が浅いため、ほぼ顔面を洗面台に擦り付けているようなものだった。体勢もきつく、下手すると上着がビショビショになってしまうので、同時にいろいろなことに気を回さなくてはならない。
 疲れ果てながらも、一週間分の頭皮の脂が落とせてスッキリした。


 昼頃、中学からの友達が差し入れにやってきてくれた。
 このあいだ頼んでいた資格試験の本である。これが、まあまあの値段するのだ。ありがとうございます。

LinuC、がんばります。


 受け取ったあと、彼がまだエレベータホールにいるとのことで、距離は保ったまま、一瞬だけ顔を合わせることができた。その距離は5mほど、会話は引き続き電話越しに行う。それでも久しぶりに直接他愛もない会話ができたことが嬉しかった。


 3時ごろ、隣の受験生が暇そうにしていたので、もはやルール無視で、隣の病床に侵入し話し込んだ。
 それをみた看護師さんも咎めることはなく、このご時世だからマスク着けて距離取ってね、とだけ言って去っていった。

 彼は3歳からネフローゼを患っているようで、寛解しても数日後には再入院になったりと、幼少期はほぼ病院で過ごしていたそうだ。普通の学生生活を送れるようになったのも、本当にここ最近のことという。
 それだけの入院経験があってしても、今回は例になく長期で、痛みも強烈で、なかなか蛋白の値が下がらないのが気にかかるという。

 "持病"というものと長く付き合ってきた大先輩から学ぶことは多く、つい一か月前まで医者にお世話になることすらなかった僕とは全く別の世界だなと思った。
 なんだか、自分が恥ずかしくなってくる。
 ただ、彼は自覚症状なく幽閉されている僕についても「それもしんどいですよね」と同情してくれる。彼も思うように蛋白の値が下がらず、もどかしい思いをしているというのに。
 退院したら食べたいもの、指定難病の助成金の話、彼女とかバイトの話、そのほか諸々取り留めもなく話したが、夕方の回診の時間になり解散。


 夕方の回診で、先生から診断書が届いた。
 会社から、仮の休職期間の延長に伴って何らかの形で診断書がほしいとのことで、事前に依頼したのが一週間以上前。最初は事務手続きがあるから時間がかかると聞いていたが、あまりにも遅いので再度訊いてみたら先生がシンプルに忘れていた。

 すぐさま下の郵便受けまで行って投函。
 これで来年の一月末までは心置きなく治療に専念できるだろう。17時ごろに会社から電話があったが、おそらくその催促であるし、少し気持ち悪くなっていて怪しかったので無理せず翌朝かけ直すことにした。


 BSで17時から羽生さん、18時から手塚先生のドキュメンタリーがあり、どちらも画面に噛り付くように観た。とても面白かった。

 将棋の手筋をちまちまと覚えている段階なのでまだなにも言えた口ではないけれど、AIの登場によっても将棋の絶対解のようなものが出るわけではなく、やはり最終的には人と人との闘いであるというのが、将棋の底知れぬ奥深さだと思う。
 50代の羽生さんでもその深淵が見えないのであれば、僕なんかはどうすればよいのだろうか。でも、「玉は包むように寄せよ」とかひたすら格言をなぞるだけのいまも十分に愉しい。

 また、帽子を外した手塚先生は初めて見た。
 漫画の神様は、伝説どおり、ほとんど眠っていなかった。恐ろしい熱量で一切妥協を見せず、締め切りに平気で遅れる。外の控室で担当者が雑魚寝をしている。手塚先生だから成立している光景で、外野がとやかく言える次元じゃないな、と思った。
 仕事だから〆切厳守という意見もあるけれど、手塚先生はよりよい漫画を描きたいだけ。担当者はその才能で商売をさせてもらっているのだから、少しばかり悪態をつきながらも付き合っている。ものすごいところでバランスがつりあっている感じ。
 手塚作品は手塚先生の命そのものだった。ちゃんと読もう。


 入院日誌なのだから、さっき観たドキュメンタリーの感想を書く場所ではないなとは思う。ただ、二様の天才をみて、ちょっとだけ興奮してしまっていた。

 明日はRIの検査があるらしい。放射性医薬品を注入するため、ルートは外せないとのこと。
 しばらくはそんな感じで、ちまちまとした検査が続くかもしれない。

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