入院37日目
目を瞑ると、だんだんと気持ち悪くなってくる。目が回る、みたいな。
そういえば前回のエンドキサンも数日後にきた気がする。
夜中にビープ音で目覚め、耳栓をしてなかったことに後悔した。隣の受験生の点滴が放置されていて、終了のブザーが無限ループに入っている。
受験生は耳栓をして寝ているのだろう。爺さんたちから寝息は聞こえないが何も言わない。廊下にも響いていると思うが誰も止めにこず、脳が揺れて仕方ないため、痺れを切らして僕がナースコールを押した。
音が鎮まったあとの耳に残った余韻のほうが、気持ち悪さを増幅させた。
ホットアイマスクを濫用して、何時ごろかは分からないが無理やり眠ることができた。
次に起きたのは7時ごろ、まだ感覚とは数十メートルの乖離があるような最悪の目覚めだった。
一番廊下側の爺さんが手術のようで、朝イチにその事前準備として浣腸をされていた。だが、15分我慢しろというのも土台無理な話で、すぐに逆流する音がした。それはまあ、仕方がない。
…するとあろうことか、看護師さんはあーあーと言ったきりでしばらく離れたまま帰ってこない。実際に見たわけではないが、シュレディンガーの猫じゃあるまいし、シーツはそのままだろう。
本来であれば、そんなことは予期して事前に簡易トイレを持ってきたりオムツを着けてあげたりはすべきだと思う。患者の尊厳の問題でもあるし、自分が漏らしたシーツをどうすることもできず放っておかれる爺さんは不憫でならない。
浣腸が逆流しただけなので臭いはそれほどないハズだったが、副作用で嗅覚過敏になった僕は病室内の充満を察知して、余計な想像もしてしまったことから、一気に限界値を超えた。
エレベータホールまで逃げ込み、窓の隙間からパクパクと金魚のように外の空気を吸う。久々に死ぬかと思った。
結局、朝食の直前までそこで粘った。戻るころにはさすがに処理は済んでいた。が、引き続き吐気で朝食は思うように進まない。
9時ごろ、ラジオアイソトープ検査で呼ばれる。
半袖で大丈夫かと問われて、最初は意味が分かっていなかったのだが、外来は外来でも別館になっており一瞬だけ外を経由したとき、その意味を悟った。これが、年の瀬か。
かなり待たされたが、今日は検査自体はなく、放射性医薬品の注射のみだった。ルートは使わず、普通に反対側の腕に注射された。それが全身に行き渡り、悪いところに蓄積する様子を2日後に確認するらしい。
戻ってから、採血。ルートも抜いてもらう。短時間で両腕を忙しく刺したり引っこ抜いたりされ、最終的に脱脂綿とガーゼだけに落ち着いたのは10時半だった。
ルートから解放され、一週間ぶりのシャワーの予約を入れる。
また、会社にも診断書を送付した旨あらためて電話を入れたが、2分ほどの事務的な連絡で終わった。
今日はなにもやる気が起きなかったが、隣の受験生は相変わらず元気なので、カーテン越しに会話をしながら、ひたすらテレビの暗証番号解読の続きを行った。温泉地に別荘を持っているらしく、お互い寛解したら一緒に温泉旅行に行こう、というところまでトントン拍子で話が進んでいく。
数時間後には解除できてしまった。"視聴制限解除"とあったが、なにが解除されたのかよくわからなかった。結局録画できないのかよと、つまらないのですぐに戻した。
昼にはシャワーを浴び、そのままウトウトとまどろんでいた。夕方までそうしていただろうか。抗がん剤の副作用か、造影剤の影響か、なんだかよくわからない。
廊下側の爺さんの手術はとっくに終わっているだろうが、今日は戻らず別の病室で泊まるようだった。
夕飯前には僕も少し回復してきて、窓際の爺さんも交えて三人でカーテン越しに会話していた。
この爺さんも、FXでいくら稼いでるだの、入院前日にドリンクバーがぶ飲みして足パンパンにしてから来ただの、さすがこっそり飴を舐めるだけあってなかなかに人生を愉しんでいた。バイクの話で受験生と盛り上がっていたが、ついていけないので聞き専に転じていた。
夕飯後も、受験生と二人で抜け出し、ホットミルクを買って外来のベンチで一時間近く話し込んだ。
僕はホットミルクのおかげで瞼が激重だったが、彼がとにかく元気で、看護師を目指すからには知識も豊富で、とにかく話題には尽きなかった。
来週投与予定のリツキシマブの自身の経験談も話してくれて、とても参考になった。抗がん剤の作用により免疫がゼロになるため、疾患には有効だが、人込みは絶対に用心しなくてはならないとのこと。彼も一度その治療期間中にインフルエンザB型に罹り、生死をさまよったと聞く。本当の闘いはこれからなのだとあらためて気が引き締まった。
20時ごろに病室に戻ったとき、「どこに行っていたの」と担当の夜勤看護師さんに怒られたが、なんだかそれすらも気分を弾ませた。
こんな入院生活は予想もしていなかった。すべては彼のおかげだと思う。
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