入院46日目(大晦日)
昨日は消灯後にNetflixで「浅草キッド」を観てボロボロ泣いた。
最近は講談ばっかり聴いているから、矜持みたいなものを説かれるとすぐに泣いてしまうようになった。ひねくれていた心が純粋になったのか、はたまた単にジジイのように老け込んだのか。
そのあとは割り合いすぐに寝た。6時には同室の爺さんがモゾモゾと動き始めて、その音をキッカケに僕も重い頭を持ち上げることにした。
今日は大晦日。相変わらず天気が良い。
透析には年末年始もあったものではなく、午前中早々、右隣の病床も新しい患者で埋まった。おそらく糖尿病の透析患者で、これまたかなりの老翁だ。ジジイは大抵独り言が多く、手前で主電源を切っておいてテレビが消えたと騒いでいたが、ひとたびテレビを点けておけば大人しくなるのが救いである。
広い病室で孤独に静かに過ごす歳末というのはまったくもって絵空事になってしまったが、いまとなってはむしろ都合が良い。病床が埋まってしまえばいまさら大移動などできないからだ。これで窓際はしばらく俺のモンだ、と心の中でほくそ笑んだ。
窓の外はしばらく澄み切った青だったが、昼下がり、次第に怪しげな雲がぽつぽつと現れてきた。
2021年、大した起伏のない僕の人生をあえて序破急に当てはめるとすれば、夜勤から日勤へと勤務形態が変わった下半期からが"破"のように思う。がらりと生活環境が変わり、教育係も任され、充実感を持ってちょっと無理をしたところ、気づけばあれよあれよと病室のベッドの上にいた。
しかも、それがめでたしめでたしで過去の笑い話となれば痛くも痒くもないのだが、現在進行形で、先行きも見えず46日も書き溜めている。
何も清算することができず、読みかけの本とやりかけの課題をたくさん抱え、ましてや病棟から出ることもままならず、このまま中途半端な風体で年を跨ぐことになるらしい。それも僕らしい。
結局は人が勝手に決めた節目だし、そんなのお構いなしに粛々と日は昇って沈むし、至極どうでもいいことではある。でも、人が決めた節目だからこそ、なんとなくなにかに手を付けないと極まり悪く感じ、ソワソワさせられてしまうのもまた人間の弱さかなと思う。
出会いというと、たまたま病床が隣合わせになってそこから仲良くなる新しい出会いもあれば、小中共にしてきた友達となにかのキッカケでまた懇意になるような再会もある。
直近の出会いといえば、腎臓病仲間の受験生である。
彼と仲良くなった経緯はこれまでの入院日誌で嫌というほど書いたのでここでは割愛する。彼は泳ぎ続けないと死んでしまうマグロのように、喋り続けないと死んでしまうのではないかというぐらいよく喋った。
病室内で平気で通話を繋ぎ、付き合って二か月になる彼女とイチャイチャしているかと思えば、検温しにくる看護師さんを口説いていく。また、目上の懐に入るのが上手く、回診の先生などは可愛がってよく話し込んでいた。適度にタメ口を挟んだ敬語で、取り入れようとは思わないがとても勉強になった。
自分では彼とは真逆の人間だと思っているが、不思議と一緒にいて居心地がよかった。彼が気を遣ってくれていたのか、僕が合わせにいっていたのか、どちらかは分からないが、彼の体調が良くなってから退院までの数日間はとても穏やかで過ごしやすいものだった。
それは、彼が幼少期から大病を患い、いろいろな辛い経験をしていて、芯にある考え方がしっかりしていたからだと思う。
激しい痛み、強い薬での副作用、心ない言葉、極めつけは病気を患っていることでの入学拒否。そのどれもが、彼の持ち前のポジティブさに還元された。いや、"された"のではなく、腐ることなく自らの手で"した"。そこが彼の強さだと思う。
病気などの不幸に見舞われたとき、多くの人は「よりによって、なぜ自分が」と思うのではないだろうか。
かくいう僕もできた人間じゃないから、最初はそう思って腐っていた。でも、幾度となく彼に励まされるにつれ、そんな考えは捨てなくてはなと、言葉だけじゃなくそう思えるようになった。そしたら一時だけ値が良くなった。病は気から、というのはよく言ったものである。
また、人の痛みは死んでも分からない、ということも学んだ。
分かる、というのは欺瞞とすら思う。
僕には受験生の彼の痛みは分からない、彼にも僕の痛みは分からない。痛みというものは大半が見えないものだからである。そして、経験しないと分からない。むしろ経験するともっと分からない。
僕自身が病気になってみて、数か月前には想像もしていなかったことがたくさん起きて、それらの経験を通して、人の痛みが分かったような軽々しい言葉は口が裂けても言えなくなった。
それでも、寄り添うことはできる。漸近線のように、決して交わらないけれど、限りなく正解に近づくことはできる。その努力を続けるのが思いやりで、それが仕事なのが看護だと。彼はそんな考えを持っていた。
さて、彼が退院して、僕は病室に残った。
出会いは接点であり、お互いにいろいろな反応を示すけれど、その人間の根本を覆すような影響を与えるということは早々ない。
それぞれの人生があり、その平行線が偶然か必然か折れ曲がって何度も交わり、大きなあみだくじのようなものを形成している、そんなイメージがある。
小中学時代を共にしてきたが、中学卒業を機に社会に出た友達がいる。
彼はいま、塗装工をしている。職人の世界なので仕事内容は当然キツそうだが、大卒初任給なんか比にならないぐらいの稼ぎをあげているだろう。
再会とはいっても、疎遠になっていたわけではなく、ちょくちょく交流はあったのだが、気づいたらより親密になっていたのがだいたい今年からのように思う。
キッカケとして思い当たるのは、これも最近のことで10月。
彼の愛犬が急逝した。
彼の愛犬への溺愛ぶりはインスタグラムを観ていても伝わってくるほどで、それだけにこの知らせには僕も心を痛めた。
死因は慢性腎不全。僕には突然のことのように映ったが、彼は獣医に連れて行ってあらゆる治療を施し、それでも弱っていく愛犬の姿を見ていたため、じゅうぶん覚悟はしていたという。病名は明らかだが、直接の要因は闇の中で、彼は飼い主の責任だとひたすらに自分を責めていた。それを見ているのは辛かった。
その翌日、彼と、これまた小中を共にした友達との三人で、阿呆みたいにサッカーボールを蹴って走り回っていた。
誰も昨日のことは話題に出さなかったが、目的としては彼の傷心を癒すという意識が誰にもあっただろう。それでも、ひたすら何も考えず、下手くそでもボールを蹴った。案の定、足が攣った。
夕方には一旦解散になったが、僕はそれからも彼につきあって、テニスをしたし、夕飯を一緒に食いに行った。
そこから、この阿呆みたいにボールを蹴って疲れるだけの会合が定期的に開かれるようになり、一緒に食事にいく機会も飛躍的に増えた。
彼は周囲よりも早く社会に出ているだけあって、話していて勉強になることが多く、もともと付き合っていて飽きなかった。それが最近はより深まった感じがする。僕が僅かながらの社会経験を振り絞って近い視点で話せるようになった、というのもあるだろう。
決していち早く社会に出たから偉いと言いたいわけではないけれど、やはり社会で求められる力は応用力で、答えのない問題で、それらの経験談はどれも含蓄に富んでいて面白い。
そんな11月の中旬、僕が腎臓の病気で緊急入院することになった。
僕が家族の次にそのことを伝えたのは彼だった。病気のことは隠そうとは思わないが、ベラベラと多くの知り合いに伝えるつもりもなかった。
彼の中でも愛犬のことと重なる点があったのだろう。本気で心配してくれて、電話やLINEに飽き足らず、入院中は実際に差し入れまでくれた。
ほかにも心配して連絡してくれる友達、会社の人は少なくなかった。職場から寄せ書きが届いたときは本当に驚いた。
この入院で、いろいろな接点に思いを馳せた。
実際にはコロナの影響でその殆どが直接的ではないけれど、ちゃんとした想いがあれば、それは接点であることに変わりない。
そして、僕はそんな接点をいままでみすみす見逃してきたのではないかと反省した。入院というイベントは表面化しやすくて気づきやすいけれど、日常の細やかな出会いについては蔑ろにしてきたような気がしてならない。
出会いといっても、対人だけではない。
今年は娯楽との出会いも多かったように思う。まあ、ほぼ後半の数か月に偏ってしまっているのだけれど。
前半はもっぱら筋トレとサウナぐらいだったが、入院で膨大な暇を与えられ、それらは映画、ドラマ、数独や将棋、そして講談や落語といった新しい世界に踏み入るキッカケも与えてくれた。本なんかは入院を機にこれまでで20冊以上は読んでいる。僕みたいな遅読家には滅多にないチャンスで、とても有難い時間だ。
いろいろな接点があり、これらに反応して僅かに軌道が変わり、結果として良い方向に行ったり良からぬ方向に進んだり。
ひとつ言えるのは、ピンボールみたく劇的に変わるなんてことはないから、何が影響していまの自分が形作られているのか、分からないということである。なんだか元も子もない結論のようにも思えるけれど。
入院生活はこれからも少しは続く見込みだから、あまりまとめるようなことを言えたタチではないけれど、年末で極まりが悪いので、ちょっと長めに書いてしまった。
そんなこんなで、来年は小さな出会いをより大切に積み重ねて過ごせたらいいなと思っております。こんなエゴの塊みたいな文章に付き合っていただいた方、本当にありがとうございました。
…来年も続くんだけどね。それでは皆さま、よいお年をお迎えください。
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