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入院43日目



 今日ほど晴れやかな気持ちで過ごした一日はなかったと思う。

 20時入眠、7時起床。
 途中何度か起きたが、こんなに眠れたのはいつ振りだろうか。寝起きはいつものように頭が痛かった。案の定血糖値は低く、7時半ぐらいに早めの朝食がきた。

 窓際の病床に移れはしないが、このまま年末にかけて新しい患者も受け入れないだろうし、窓際の病床は空いたままなので、いっそのことカーテンを全開にして、僕の病床から窓の外が見えるようにした。

窓からの景色

 ついでに、隣の受験生とのカーテンも開けて、病室全体に光をここぞとばかり目いっぱいに取り込む。
 カーテンを全開にしてみると、ベッドの足先が大海原に突き出した半島のように見え、病室がとても広く感じた。
 窓から望む景色は大したものではないが、なにより天気がいい。
 僕はことあるごとに窓の外に目をやり、次第に暮れていく街並みを飽きることなくひたすら眺めていた。
 今日も特になにをしたわけではないが、いままでは閉め切ったカーテンのなかで作業に没頭するという具合だったので、日時計ではないけれど、大自然の時間軸と照らし合わせながら生活できていることにすっかり満足していた。


 今日は、一日遅れで隣の受験生がリツキシマブを投与する予定になっていた。彼はすでに何度も投与した経験があり、問題がなければ明日退院ということになる。

「…僕、早く退院したいですけど、長谷川さんとお別れになるのは寂しいです」
 しきりに何度も、そうやって声をかけてくれる受験生。
 すでにLINEは交換しているし、この繋がりはなんとなくこれからも続く気がしているから少し大袈裟だなとも思うけれど、こんなにストレートに嬉しい言葉を投げてもらえるのが久々なので自分もどうしていいか分からず照れているのかな、とも思う。

 彼こそ自分の病気と受験とで大変だろう。
 最初はなりふり構わず痛い痛い叫んでいたが、治まれば無限に話すようになり、他人の心配ばかりになって、こっちが心配になるくらいだ。

 この入院生活で、こんな出会いがあるとは思ってもいなかった。彼には早く退院して、残り二週間、徹底的に受験に集中してほしい。

 そして、彼の報告を聞くころには、僕は退院しているだろうか。
 廊下側の爺さんも明後日には退院予定で、この広い四人部屋で、しばらくは僕ひとりだけになる。孤独感は一切なくて、むしろストレスフリーに広々と過ごせていいなと思っている。
 点滴も心電計も外れ、身体を制限するものはなにもない。
 これで副作用さえなければ、ただのニートである。長い長い年末年始休暇だ。後にも先にもないだろう。ないと願いたい。だからこそ、いまをひたすらダラダラと謳歌している。

 疲れてもいないのに、何度も大袈裟にベッドに寝転んで、ようやく「錨を上げよ」を読み終えた。結末はあっさりしたものだったが、むしろそれがいい余韻を残していた。これほど豪快な純文学は百田先生にしか書けないなと思った。
 資格勉強のほうも、恐ろしくゆっくりではあるが、進めている。一方の資格はもう落ちるはずがないという域まで達しているが、そもそもここを出ないと受験できないので、まだまだ穴がないかと地道なレベル上げが続く。


 受験生のリツキシマブ投与は難なく終わり、夕方には彼も本格的に勉強を始めた。僕は隣で寝転んで本を読むプータローである。

 19時半からシャワーの予約をしていたので、その前に恒例のホットミルクを飲みに行く。
 彼とこうして外来のベンチで話すのも最後だが、病室で散々喋っているので、特段感慨はない。お互いに次のステップがあるので、それぞれ良い報告ができるように頑張ろうと誓い合った。あとは、担当薬剤師がゴリゴリのマッチョでアイビーカットなのに声がめちゃくちゃ小さくてゲイっぽくねという話題で盛り上がった。

 シャワーから戻ると、受験生は眠っていた。廊下側の爺さんも透析から戻ってきて、イビキをかいて眠っている。いくらか感覚は麻痺しているが、とても静かな夜だと思った。

 入院当初はすぐにでも仕事に戻りたいと思っていたが、いくらか心境の変化があった。
 いまはしばらくこのままでもいいかなとさえ思っている。
 それは、決して病気を諦めているわけではなくて、一秒でも早く治したいのには変わりないが、休めるならばもうちょっと休もうかな、いずれ徹底的に暇を謳歌すれば気持ちも自然と仕事に向くだろう、という楽観である。

 

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