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夏の亡霊は美少女だった 第四話

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 精密検査の結果、脳や意識は正常、外傷以外に問題はないと判断された公太は、その翌日に退院した。何か異常を感じたらすぐに病院に来るように、という注意に不安を感じはしたが、公太としては病院で暇を持て余し始めていたところだったから、むしろありがたかった。

 退院して母親と共にタクシーへ乗った公太がアパートへ戻り、まず最初に目にしたものは、無残に変わり果てた愛車の姿だった。

「どうすりゃいいんだこれ……」

 タクシーを降りてすぐ、駐輪場の隅にある(元)愛車が目に入ってきた。車体の右側面は至るところが割れたり折れたりしており、フレームにもヒビが入っている。ハンドルも曲がっていびつな形になっているし、マフラーも原型を留めていなかった。

 母から聞いた話では、公太が意識を失っている間に父が警察から引き取って運んでくれていたらしいが、修理しても動くかどうか怪しいと思った。そもそも動くようになったとしても、とても再びバイクに乗って走る気にはなれなかった。事故前後の記憶はすでに曖昧だったが、バイクを見るだけでも気持ちが悪くなるような、そんな感覚があった。

「お父さんにもね、処分したほうがいいんじゃないか、って言ったんだけど、勝手に捨てるのもよくないだろ、って」

 公太の母が言った。

「でも、こんなに壊れてたらもう、どうしようもないよな」

 口ではそう言ったものの、公太はなんとなく父の気持ちを理解していた。そもそも公太がバイクの免許を取ったのは、小さい頃に父が運転するバイクの後ろに乗せられていた記憶があったからだった。今でこそ乗らなくなったが、父はよくバイクに乗って出掛けていたものだ。同じバイク乗りとして、勝手に愛車を処分するのは気が引けたのだろう。

 もっとも、このバイクに関しては処分してくれても良かったな、と思った公太だった。

「まぁ、適当に片付けときなさい。あと、もうバイクに乗るのは……」

「大丈夫、乗らないって。新しく買う金もないし、もう乗る気にもならない」

 母の言葉をさえぎりながら、公太は言った。そのまま駐輪場から離れると、アパートの外壁に沿って据え付けられている階段を登り始めた。久々に動かす身体は重く、階段を登りきる頃には若干息が切れていた。数日寝ていただけで、こうも体力が落ちるものか。しばらくリハビリが必要だな、と思いながら公太は自分の部屋へと向かった。

 公太の住むアパートは木造の二階建てで、全部で六部屋の小さな建物だった。そのうち公太の借りている部屋は二階の一番奥で、窓からは小さな林と、神社の裏手が見える。壁が薄いのか、隣の部屋の生活音などが聞こえてくる(もちろん、こちらの出す音も聞かれている)のは悩みの種だったが、林に巣を作った野鳥の声や、キツツキが木を叩く音などが聞こえてくるのは気に入っていた。

 部屋の前まで来て、公太はドアノブを回した。当然、鍵のかかったドアは開かなかった。

「あれ、鍵どこやったっけ」

「私が預かっといたよ。ちょっと待って」

 そう言いながら、公太の母は肩に掛けたハンドバックの中を漁り鍵を取り出した。鍵を公太に手渡しながら、母は心配そうな顔で言った。

「コウちゃん、あんたもしかして普段鍵開けたまま外に出たりしてんの?」

「あー、ちょっとした外出くらいならね……」

「ちゃんと鍵かけときなさいよー、田舎と違うんだから」

「はいはい、気をつけますって」

 公太の実家は、北東北の山奥だった。ちょっとした外出程度なら鍵をかけないのが当たり前。チャイムが鳴ったら、家主が「はーい」と答えれば来客側が勝手に玄関を開けるし、慣れている間柄なら返事を聞く前に勝手に戸を開ける。いつの間にか家の中にお隣さんからの回覧板が置いてあることもままある。公太もその頃のクセが抜け切らず、ちょっと外出する程度なら鍵をかけずに出ることはよくあったし、家を一日あける時にすら鍵をかけ忘れることもしばしばあった。

 もっとも公太が今住んでいる場所も、決して都会とは言えない。市街地から少し離れた地域で、山のほうが近いくらいだ。どちらかと言えば「田舎」寄りだと公太は思っていた。

 鍵を回してドアを開けると、公太はかすかに新築アパートのような、独特の匂いを感じた。引っ越してきたばかりの時のような、木造建築の香り。毎日住んでいるとわからなくなるが、こういう香りを発しているものなんだな、と公太は思った。

「部屋、軽く掃除しといたからね」

「え? あぁ、うん」

 母の言葉に、なにもマズいものは放置していなかったよな、と公太は考えた。何もなかったはずだ。いわゆるエロ本は美雪と付き合い始めた頃に処分したし、まだコンドームが必要な関係まで進んでもいない。そんなことを考えながら、部屋へと足を踏み入れる。

 母の言った通り、部屋は公太の記憶よりも少し綺麗に片付けられているようだった。流しに放置していた食器は食器棚に、脱ぎ散らかしていた服はクローゼットの中に、あるべき場所へと戻っていた。掃除機もかけられていたようで、埃っぽさもなかった。

「ちょっと明るくなったでしょう、窓も軽く拭いといたから」

「おお」

 言われてみれば、確かに日光がよく入ってきている気がした。この部屋に引っ越してきてから一年と数ヶ月、一度も窓を拭いたことなどなかった。年末の帰省前に一度拭こうかと考えたこともあったが、角部屋のため南側と西側の二面に窓があることもあって、すぐに面倒になってやめてしまった。

 おそらく父が先に帰ってしまって、やることがなくて暇だったのだろうな、と思いつつも、公太は素直に感謝した。

「いろいろとありがとうね」

「なに、他にやることもなかったから。とりあえず散らかってたものだけ片付けたけど、あんまり動かしたりはしてないから」

「うん」

「遺品整理にならなくてよかったわあ」

「……」

 目を細めながらしみじみと言った母だったが、公太には笑えない冗談だった。

「それじゃあ、母さんはもう帰るからね」

「あ、もう帰る?」

「ここにいたって何もやることないし、コウちゃんも気を遣うでしょ。街のほうでも見て帰るから」

「そうか。悪いね、なんもお構いできなくて」

「なーに言ってんだか」

 冗談めかして言った公太に、母も笑った。そして手早く手荷物をまとめると、玄関のほうへ向かっていった。

「しばらく夏休みだろうし、ゆっくりしなさい。気が向いたら実家に帰ってきな」

「うん」

「落ち着いたら電話でもして。お父さんにも声聞かせてやって」

「わかった。ほんと、いろいろありがとうね」

「いい、いい。んだば、まずね」

 公太の母は、地元の方言で別れの言葉を告げるとアパートを後にした。

 母の背中を見送った公太は、居室へ戻ると部屋をぐるりと見回した。もともとあまり物は置いていない。西側の窓際のベッドと並ぶように、14型の液晶テレビを乗せた二段だけのメタルラック。コタツも兼ねた正方形の座卓と、勉強机がわりの木製テーブルと椅子。本棚がわりのカラーボックスには、授業で使う教科書やバイク雑誌が入っている。

 衣服の類や下着などを詰め込んだ衣装ケースはクローゼットに押し込まれているから、目の届く範囲にある物はこれだけだった。もっとも、普段生活していると脱いだ服やゴミ袋などが散乱していくのだが。

「いやー、男子の部屋ってのは殺風景なもんだねえ」

「うわっ」

 唐突に聞こえた声に、公太は小さく飛び上がった。その弾みで、少しだけ首に鋭い痛みが走った。数回まばたきをすると、何度めかのまばたきの直後には、ヒナがベランダ側の窓際に立っていた。だが、公太の感覚としては突然現れたというよりも、もともとそこにいたのに気付かなかったような、そんな印象だった。

 ヒナは病院で見た時と同じ髪型、同じ服装そのままでそこに立っていた。

「あはっ、そんなに驚かなくてもいいじゃん」

「……」

 公太が黙っていると、ヒナはおっかなびっくりといった様子を滲ませながら、公太の様子を伺った。

「もしかして、あたしのこと忘れてた?」

 実際のところ、公太はすっかり忘れていた。だからこそ、ヒナの声が聞こえた瞬間に飛び上がったのだった。

「えぇ……ちょっとショックだなあ」

「すまん」

「いや、謝られても」

 片手で漫才のツッコミのような仕草をしながら言うヒナだったが、まだ母との会話の余韻を引きずっているのか、公太は申し訳なさそうにうつむくだけだった。

 苦笑いを張り付かせたまま数秒に渡って固まっていたヒナは、小さく咳払いをすると気を取り直した。

「それにしてもさー、男の子の部屋にしては小奇麗に片付いてるよね」

「ああ、それはおっかあが……母が、片付けてくれたばかりだから」

 言い直した公太の言葉に、ヒナは目ざとく反応した。

「え、なに、コウちゃんってお母さんのこと、おっかあ、って呼ぶの?」

「いや、まぁ……そうだけど……」

「へー、ふーん」

 ニヤニヤとしながら見つめてくるヒナに、公太は恥ずかしさを覚えた。

「仕方ないだろ、田舎者なんだから。地元じゃ普通なの」

「別に悪いとは言ってないじゃん。ね、コウちゃんってどこ生まれなの?」

「ん……どこだっていいだろ。隣の県の、県庁所在地だよ」

「えぇ……なにそれ」

 はぐらかすような答えに困惑するヒナだったが、それは大学に入学してから今まで、出身地を聞かれる度に公太が答えてきた決まり文句だった。もっとも、県庁所在地といっても、正確には平成の大合併によって市に併合された小さな村の出身だ。はっきりと答えないのは公太のコンプレックスの現れであることを周囲の人間は察していたが、公太自身はそれにまったく気付いていないのだった。

 ヒナも例に漏れず一瞬で公太の意図に気付き、それ以上深く突っ込むのはやめることにした。

「それじゃあさ、コウちゃんはなんで上京してきたの?」

「上京って、ここ東京じゃないけど……」

「細かいことはいいんだよ。宮城は東北の首都みたいなもんでしょ」

「いや、それもどうかと思うけど……」

「いちいち細かいなあ」

 ヒナの言葉に公太は少しムッとしたが、何も言い返さなかった。人口でも経済でも、宮城が東北で最も栄えていることは紛れもない事実ということは公太も認識していた。

「特に意味はないけど、学力的にちょうどよかったからだよ」

「それだと地元の学校でも良いんじゃない?」

 ヒナの指摘に、公太はひときわ表情を曇らせた。

「……ひとり暮らしがしてみたかったからだよ」

「あは。まあ、そんなもんだよね」

 声のトーンを一段低くして答えた公太だったが、ヒナはまるで意に介さず笑った。

「そんなもんで悪かったな」

「別に悪くないって。あたしもひとり暮らししてみたかったなあ、って思うもん」

 遠い目をして言ったヒナの言葉に、公太は黙り込んだ。ヒナの見た目は高校生くらいだ。おそらく、ひとり暮らしをする機会を得る前に死んでしまったのだろう、と公太は思った。

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