東側の逆転。

昨年だったか、京浜急行蒲田駅を利用する機会があった。3層建てくらいの無駄
に大きい駅の造りにびっくりした。
ぼくの学生時代、都心の山手線に接続する私鉄のなかで、京浜急行と京成電鉄は風前の灯感が濃厚だった。もちろん社会インフラだから簡単に灯が消えることはないが、駅も線路も電車も「お金ないから何にもできません」な感じが強かった。
戦前から始まっていた東京の人口急増と経済成長に対応して西へ伸び、住宅地の整備とレジャー施設の充実に力を入れていた西側の私鉄各社に比べ、川崎大師、成田山と初詣のときを除けばこの2路線は魅力に乏しかった。三浦半島の別荘族やマリーナにヨットを持っている人たちは電車など使わないし、すでに成田空港も開業し何年も経過していたが、まだ昭和のころは、大雨が降ると水が流れ込む京成上野駅発のスカイライナーより、箱崎からのリムジンバスを利用する人が圧倒的だったと思う。

昭和の終わりころ、浅草からは人が消えていた。もちろん住んで商売していた人はいたが、ほぼ酔っ払いとギャンブラーの街と化しているように見え、閑散としていた。かつての賑わいからも、現在の混雑からも想像ができない、そんな浅草松屋から発車する東武本線(伊勢崎線)は、東京の西へ伸びた東上線と比べてさえ色褪せて見えていたのが昭和の末だった(いまも発車するとこれ大丈夫かと思わせる橋で隅田川を渡っているだろうか)。
過去を忘れ去り未来へ未来へ(西へ西へ)と突き進んでいた昭和の人々の意識をその後変え、行動を変えたのはなんだったんだろう(少なくとも東武動物公園やワールドスクエアではない)。

昭和から平成、バブル崩壊、35年ほど前、明らかにちょっとした時代の気分の変化があった。西へ伸びすぎて山にぶつかり溢れ返った人々が東へ戻ってきたのだろうか。ときを同じくして都営浅草線と京成、京急が連結する。大逆転の始まりであることは間違いない。成田と羽田がつながった。それに先立って昭和が終わる数年前に開園した東京ディズニーランドには人が押し寄せ、最大株主の京成電鉄にも豊富な資金が流れ始める。西から出た土砂やゴミを利用したかどうか知らないが、浦安の海を埋め立て、海へ海へという時代が来るかも知れないことを予見したことの勝利でもある。
東京西側のレジャー化に成功した東急、小田急、京王、西武に遅れをとった京成は、60年から「東洋一のレジャーランド」の計画を掲げオリエンタルランドという会社を設立、70年代からディズニーランドの誘致を視野に入れ、83年の東京ディズニーランド開業に至る。
この辺りには個人的記憶も大きく絡んでくる。TDLの建設や施設整備には美大生のアルバイトが多く動員され、いまは亡き友人もよく稼ぎに通っていた。大学を卒業して間もなく、同級だった鹿児島生まれの友人の結婚式で宮崎に招かれた。見合い結婚の相手は、ディズニー好きが高じて卒論で日本でのディズニーランドの実現を論じ、それによってオリエンタルランドに就職しすぐ幹部候補となってしまった宮崎生まれの積極的で切れる女子。披露宴の最前列のテーブルにはぼくら新郎側の友人とともに、新婦側来賓としてすでに開業していたTDLの重役陣が陣取り、見た目にはなんとも不釣り合いな光景だった。彼女は現在、オリエンタルランドの会長兼CEOだ。
先日、佐倉のDIC川村記念美術館を訪れた際に、久しぶりに日暮里駅でJRから京成にに乗り換えた。大学のときはよくここで乗り換え、いまはなき博物館動物園駅から通っていた。京成日暮里駅は敷地の限りがあるからそれほど巨大にはなっていないが、でもスカイライナー乗り換え駅として、日暮里に住んでいた10年程前と比べても様相は大きく変わっていた。

そしていま、東武鉄道が母体となって建設した東京スカイツリーが見下ろす浅草には観光客が溢れている。先日浅草寺を訪れたという知り合いは日本語が聞こえてこないとさえ言っていた。スマートボールもピンク映画館も無くなり、人が溢れる街にもはや酔っ払いとギャンブラーの街という面影は少なくなった。なんという東側勢力の大逆転だろう。

だが観光客はお金を落としても観光地の外に足を踏み入れることはない。言問通りを越えれば、あるいはスカイツリーの脚元でさえ、ちょっと足を伸ばせば大正や昭和初期の賑わいを越え、さらに昭和後期の寂れをも越えるなかで染みついてきたうらぶれ感を、消し去ることはできない。失われた過去の記憶への想いと未来を夢見る執念が、いま交錯している。

追記:
浅草の対岸、向島でいまも伝統を守り営業を続ける言問団子や長命寺桜餅の山本や、いずれもこの辺りが江戸時代から身近な観光地であったことを伝えているが、その目の前には昭和中期の最悪の開発遺産でもある首都高速の橋脚が聳え立ち、川土手への景観を遮っている。

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