プログラマーとなるまでの変遷を記す

こんな記事を読みました。

今となっては経営とディレクションが本業ですが、私もプログラマの端くれではありますので、自分がプログラミングを生業とするまでの変遷を思い返してみます。

なお、私の場合は情報系の大学やスクールに通ったことはありませんが、プログラムを教えてくれた師匠がいました。師匠との出会いが無ければプログラマにはなっていなかったかもしれません。

就職前

私がプログラマになった決定的な事由は、大学時代にあります。
今でも完治はしておりませんが、当時から重度の厨二病を患っておりました。

まず、セガサターン版「デビルサマナー ソウルハッカーズ」に出会いました。そこでパソコンハッカーという言葉に対して強烈な憧れを抱くようになりました。

次に、書籍「コンピュータ悪のマニュアル」に出会います。

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そこで、インターネットのアンダーグラウンドという世界に強烈な憧れを抱くようになりました。

当時、美術系の大学生だった私は酷く貧乏でしたので、バイト代でコツコツを部品を集めて、半年かけて初めてのPCを組み上げました。

ちなみに、今はなきCyrixというブランドのCPUを使っていました。「リニアバーストモード」という厨二心をくすぐる機能を有しており、電圧をギリギリまで上げてオーバークロックして使う自分に酔いしれていました。

PCを手に入れた私は、毎夜テレホーダイでUG(アンダーグラウンド)なサイトを巡り、自分でもホームページを作りはじめて、HTMLと雑多なWeb知識を得ました。

ハッカーに憧れて、雑誌の付録についていた Turbo Linux をインストールしたものの、当時はまったく使いこなせませんでした。

就職

最初の就職はWebデザイナーとして採用されました。

IllustratorとPhotoshopに加えて、当時まだ珍しいFlash(当時はmacromedia製品)が使えたのが強みでした。

この頃、WebコンテンツといえばPerl言語で書かれたCGIが主流で、私も「KENT-WEB」で配布されていたBBS(掲示板)を使っていました。

趣味であるUG活動の中で作りたいコンテンツがあったので、独学でPerlを書いていたのですが、まったく理解できずに挫折の連続でした。

そんな時に、勤務先の会社に初めてのプログラマーが採用されてきました。私のプログラミングの師匠となる人です。

初めてのプログラミング

この時、師匠はまだ情報系の大学生で、アルバイトでした。

教えることが上手で、かつ教えることが好きな人で、私が製作中のプログラムについて相談すると、色々なことを教えてくれました。

エラーメッセージの読み方、エラーの探し方、辞書(リファレンス)の引き方、C言語、Linuxのコマンド、サーバーの設定、プロトコルなどなど。

色々と教えてもらいましたが、一番重要だったのは「設計」と「美的感覚」だったと思います。「エレガントなコードを書け」という師匠の教えは今でも私の核となっています。

師匠のサポートのおかげで、初めての自作プログラムを完成させて、「UG専門メル友募集掲示板 ル○ーダの酒場」を公開することができました。

これが一部でそれなりにウケたため、UG界隈で色々な出会いがありました。
オフ会に行くと必ず数人のヤ○ザがいたり、確実におっさんだと思っていたハイスキル技術者がイケメン高校生だったりと、得難い経験をすることになりました。

2度の転職

最初の転職のきっかけは、ある企業から師匠がヘッドハントされたことでした。
その時、師匠に推薦してもらって、ついでのような形で私もヘッドハントしてもらい、東京で働くことになりました。

Webデザイン + CGIプログラミング ができることに加えて、当時趣味で作っていたFlashを使った3Dインターフェイスが評価されたようです。

当然のことながら、この3Dインターフェイスというのはソウルハッカーズに登場するALGON OS に憧れて作ろうとしていたものです。
まぁ、難しすぎて実用的な形は実現できなかったのですが。

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この頃、サーバー運用にハマっていて、東京の自宅では固定IPを引いて3台のサーバー機を動かしていました。
ちなみに、この頃は Kondara MNU/Linux派でした。

東京の会社は、事務のおじさんまでLinux使いという変わった環境でした。
師匠のお手伝いをしているうちに、JavaとRDBMSについて覚えました。
また、時代的にはテーブルコーディングの全盛期だったのですが、師匠の好みに合わせてCSS主体のWeb標準コーディングを覚えました。
仕事ではWebアプリケーションのUIをゴリゴリ作ることが多かったです。

仕事が激務だったり、ホームシックにかかったりと、東京の生活に限界が来た頃、地元の企業からヘッドハントの誘いがあり、これに乗って地元へ帰りました。

師匠と離れることには強い不安がありました。詰まった時に解決してくれる人であり、迷った時に相談できる人であり、何かに付けて頼り切りだったので。
しかし、だからこそ卒業しないとな、とも考えて離れる決意をしました。

地元の企業へ転職すると、師匠と離れた影響で、師匠の好みではなかったPHPに手を出すようになりました。

この頃、テキストを書くことにハマっていて、プログラムは趣味のものを作るより、日常的な作業で使うツールをパパっと作ることが多かったように思います。

リネームやコンペア、スクレイピングなど、フリーソフトを探し回るよりは、書いた方が早いだろうと。

なお、前出の「悪のマニュアル」の著者さんに会えたことで満足して、UG的な活動は卒業していました。

フリーランス時代

地元の会社では、主にディレクター業務をしていたのですが、事業の都合で東京に移転するという話になったため、退職しました。

転職先を探すまで、つなぎのつもりでポツポツと個人で仕事を請けていたら、いつの間にやらフリーランスになっていました。

デザインと開発の両方ができることと、Webシステムの開発に慣れがあったことで、広い範囲の仕事が拾えたのが良かったのだろうと思います。

年商が1000万になるのに3年ほどかかりました。

ちなみに、この頃に某研究所にウィルスを持ち込んでしまったことがあります。

結局、10年ほどフリーランスとして活動することになるのですが、フリーランス後期に暇を持て余す時期があって、3Dのプログラミング開発に手を出していました。

今から10年前、Unityの無い時代。まさにUnityのような3Dプログラムを作るための素体・フレームワークのようなものを作りたかったのですが、だんだんと趣味の時間が取れなくなり、手を付けなくなりました。

この時に作った「バトーキン島」というMMDモデルが書籍の付録に収録されたりしました。

プログラミング講師、 起業 → 現在

一時期はプログラミングの講師をやっていて、自治体の育成事業や、SIerの社員研修に関わりました。

その頃の講師仲間と共に立ち上げたのが、現在の会社です。

今でも暇を見てはポツポツと趣味でプログラムを作ることはありますが、滑っていることが多くて、まだバズったことがありません。

そしていま、娘が生まれてからこちら、趣味としてプログラムを書く時間とエネルギーを捻出するのがすっかり難しくなりました。

「何か作ってみよう」はマウントなのか?

スクールが意味ないってのは全く同意なんだけど、じゃあプログラミングを生業にするには何が必要かに答えられない人に多すぎだよね
絶対こう聞いても帰ってくるのはマウンティングだけ
まず何か作ってみよっか?(ドヤ顔)みたいなw
けど、よくよく話聞くと自分は新卒で会社入って、先輩にどやされながらキャリア積んだだけっていう無能だったりする
なのに自分の事は棚に上げて第二キャリアとしてプログラミング始めようとする奴にはマウンティングで返す
本当ジャップの嫌なところを煮詰めたような奴ら多過ぎて頭クラクラしてくる

私はプログラミングの講師として、100人ほど教えた経験があります。

その経験から言うと、プログラムは誰でも書けます。
そもそも、プログラムを書くという行為は、そんなに難しいことではないので。

しかし、この元記事で主題とされているのは「プログラミング技術を習得する事」ではなく「プログラマという職業に就く事」だろうと推察されます。

プログラマという職業に就いて幸せになるためには適性が必要だと強く思います。
この適性がないままプログラマになることは、本当に本当に不幸です。私の知る限り、これほど心を壊してしまう人が多発する業界は他に知りません。

その適性を計るために「何でもいいから作りたいものを作る」というテストは非常に有効であると考えます。

「じゃあ、その適性って何さ」と言われれば、好奇心や成長欲、思考労働への耐性など、色々な言葉で表現できなくも無いのですが、複合的でぼんやりしたもので、私の語彙で明確に示すのは難しいです。
個人的には「浪漫」の一言に尽きるんですけどね。

まあ、そんなわけで、プログラマ側からすると「作ってみたら分かるって。つべこべ言わずにやってみな」というアドバイスが出てくるわけです。

それはマウントといえばマウントなんでしょうが、トマトが嫌いな人に「本当に美味いトマト食ったことないだろ。いいから食ってみな」と言う感覚だと思います。

ただ、私の時代と違って、今は何でもありますから「何か作りたいもの」と言われても困ってしまうことは多いのだろうと思います。
少々のコンテンツは、今やプログラムしなくても作れることが多いですし。
その点だけは、今の若い人たちは不幸だなと思います。

特に締めの良い言葉が思いつかないのですが、「プログラムが書けるから」という理由で、プログラマという職業に就いたために不幸になっていく人が、これ以上出ないといいなと切実に思います。



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