淹れる考

※この文章は、まだ頭の中で整理できていないことについてだらだらと書いているものです。

劇団員の鄭君は、なんかいろんなことをやってる人で、彼が企画した(という言い方が正しいかどうかは分からないが)長期ワークショップに、作家として立ち上げから参加させてもらっている。

こないだのことだ。打合せのときに鄭君が「家で作業していたらコーヒーを淹れたくなっちゃって」と話していて、お、と思った。そこでお、と思って思考が始まってしまったものだから、なんでそんな話になったかは覚えていない。

コーヒーを淹れたくなった、というのは、コーヒーが飲みたくなったという意味である。とにかく淹れたい!挽いてドリップしたい!出来上がったものは捨てる!というわけではあるまい。出来上がったものは飲むだろう。

私が家でコーヒーを飲むときは、一人分をドリップする。マグカップに直接あの、漏斗みたいなやつをセットして、ドリップする。贅沢なようだがこれには理由があって、あえてめんどくさい工程にすることで飲み過ぎを防いでいるのである。

そんなわけだから、私が家でコーヒーを飲むときは、当然「淹れる」を経由するわけだが、私は鄭君のように「コーヒーを淹れたくなった」とは言わないので、お、となったのだった。私はきっと「コーヒーを飲みたくなっちゃって」と言うだろう。

しかし一方で、コーヒーには「淹れる楽しさ」がある。蒸らし時間や注ぎ方を変えてみる、道具をそろえてみると言った、工夫の余地がある。コーヒー粉にお湯を注ぐ瞬間たちのぼる香りも魅力的だ。世界大会が開かれるくらいだから、その底は深い。私がコーヒーを飲みたくなった時、たしかにそこには淹れる行為への楽しみ(そして煩わしさ)が含まれているのだ。

なんて考えていたけど、鄭君が、まじでコーヒーを淹れるだけ淹れてできあがりを捨ててたら面白いな。

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