反則負け

5月19日は今から41年前、1980年、東京のスポーツの総合出版、ベースボール・マガジン社に入社した記念すべき日なのだ。34歳だった。それまでずっと関西で生活していた。

1965年、立命館大学に入学して以来ずっとね。大学3年の時、結婚したが1979年、奥さんのお母さんから「娘もいろいろ悩んで考えていることがあるしこの際、別居してみたらどう? あなたもわかっているでしょ?」。

ああ、そうかあ。ついに来たか? これは離婚への道筋だなと理解した。私は友人に頼んでレンタカーを借り荷物をまとめ彼が運転する車で京都府相楽郡木津町を後にした。

彼女の実家のすぐ裏のアパートに住んでいたのだ。あれは切ないというかむなしいというか悲しいでき事だった。新しい住まいは南森町。後家さんが経営していたアパート。

その1年後、私はベースボール・マガジン社のプロレス編集部の杉山編集長から「ウチに来てくれない」と誘われた。ちょうど離婚問題が持ち上がっていたのでいい機会と思い東京に行くことを決断。

離婚届にサインした。交渉はすべてお母さん。彼女は同席しなかった。『週刊ファイト』での3年間は意味があったというか今でもそのことには感謝している。

彼女にはすでに新しい恋人もできていたしね。もはや始めからそうなるようになっていたのだ。東京に行くにあたってはとりあえず住む場所を見つけなければならない。

わざわざ私が東京に行って探す時間がない。そのためのお金もなかった。その頃、プロレスラー、阿修羅原さんの奥さんとはなぜかお友達。夜、電話でガールズトークなどをしていた。

それで奥さんにアパートを見つけてくれない。予算がないのでできるだけ安いところをとね。そうしたら大塚の4畳半、トイレは共同。風呂なしを見つけてくれた。

管理人は隣の部屋。目が不自由な方だった。家賃は3万5千円。ベースボール・マガジン社は神田の錦町にあった。大塚のアパートは地下鉄巣鴨駅から線路沿いを歩いて15分ぐらい。

通勤は都営三田線巣鴨から神保町という流れ。ベースボール・マガジン社とは給料、18万円で契約。大学中退なので高卒扱いとされた。そこから私の人生が再スタートしたのだ。

そんなことを思い出してしまった。彼女とは13年間、暮らしたことになる。大相撲観戦、11日目。驚いたはこの日まで全勝だった照ノ富士が相手のマゲを掴んだことで反則負けになったことだ。

あんなことある? 頭を押さえて投げようとしたらそうなっただけだ。判定に疑問を持った。これで照ノ富士は1敗。2敗は貴景勝と平幕の遠藤。優勝争いは面白くなったけどなんか納得できない。

観戦後の食事会は焼き肉でした。今日の“四字熟語”は反則負け。


ターザン大陸より)
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