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僕は僕を僕にしたいだけ

一体どこに向かっているのか分からなくなることがある。

その不安というか迫られている何かから逃れるように没頭する何かを見つけようとするのだが、ふと現実に引き戻される。

「自分はどこに向かっているのか」

そもそもどこかに向かわなければならないのか。
人生に目的は必要なのか。

これまでの人生経験が私の思考を逆算にもっていこうとする。(目的なんて決められないはずもないのに)

目的、目標がないのが怖いというのは大学2年生の前半から始まった。
自分は一体何者なのか。何のために何をすればいいのか。何が正解なのか。

自分の心惹かれるものに飛びついては離れ、飛びついては離れを繰り返した。

繰り返すうちに人が好きなことが分かった。
正直者が馬鹿をみる世界であってはならない。
人の成長を支えたい。
いつかそれが私のコアになっていった。

ただ、これは無限に自分が消費されることにもなる。
「誰かのためにが自分のために」になっているとは言えども報われないと思うことは多々ある。

何かに盲目的に、誰か特定の人・モノのために、一種の洗脳的に生きることも幸せなのかもしれない。

一方で盲目的に生きることは突如として目標、目的を失うことの危険性を孕んでいる。
そのリスクを考えると、どうにも抽象的なゴールを定めた方が良さそうだと思考にブレーキがかかる。

そんなことを考えていると、ふと、とあるセリフが頭を過る。 

「僕は僕を僕にしたいだけさ」

生きることに目標はないのかもしれないが、何かをしなければならないという何かが迫ってくる。
何か単一の目標、目的を定めるのはリスクだ。なぜなら盲目になり続けられるほどその「目標、目的」が存在し続ける保証がないからである。
失えば何のために何をすればいいのか分からなくなるに戻ることになる。
一方で、抽象的な目標、目的はニーチェの超人的であり、終わりがない。

いずれにせよ「僕は僕を僕にする」でしかない。
あーなんてことだ。ループだ。
ただ、正解がないからこそ自分自身が行っていることを自分だけでも認めてあげること。
納得してこれでいいんだと自分が自分に言ってあげることがこの呪縛から抜け出す方法なのかもしれない。

進む先が正解なのかは誰にも分からない。ただ、私は誰かにとっての進む先が正解であると納得し自信を持って進んでいくための材料を提供するお手伝いはできる。
それが「僕である」と納得した結果として今もこうして生きているんだと思う今日この頃。

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